燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









30,000hit「伸ばした指に触れる」








空が青く澄み渡ったその日、屋上から見える景色はいつもとなんら変わりがなかった。
だからといって、見張る目を休めることは許されない。
此処は黒の教団本部。
この高い塔の先端が地上からどれだけ離れていようとも。
アクマが空中を移動するモノである以上、屋上にはどんなに厚い護りを施しても足りないのだ。

「ふぁ……」

警備班員は小さく欠伸を漏らし、直後に気を引き締めた。
同僚も軽く首を振り、目を瞬いている。
午後の太陽がもたらす暖かな光に包まれた二人。
同僚がぱしんと自分の頬を打った。

「あと二時間で交代だ」
「おう、頑張ろうぜ」

互いに励まし合って、再び視線を戻したその時、扉の軋む音がした。
まだ交代の時間ではない。
はっとして入り口を振り返る。
侵入者か?
――否。
疑いは一瞬で晴れた。
繋がる空間へと視線を吸い寄せられ、ひゅっと変に息を吸い込む。
日に照らされて一層の輝きを湛える、黄金。
黒の団服。

「お疲れさま」

微笑むその顔は、屋上の警備班員にとっては滅多なことでは縁の無い、それで。

「は……? え、……、様っ!?」
「ど、どうして、こんなとこに?」

同僚と揃って、吃りながら尋ねてしまった。
が気にした風もなく、首を傾げる。

「ちょっと昼寝させてもらいたくて」

やっぱ邪魔かな、などと呟く彼へ、警備班員達は勢いよく首を振って答える。

「そそそんな! 全然!」
「どうぞお好きな場所で!」
「サンキュ。じゃあ、お言葉に甘えて」

にこりと笑い、彼は無造作に日の当たる場所へ寝転んだ。
同僚がちらちらとそちらを窺う。

「あの、様……何か下に敷きますか……?」

でいいよ、と彼が笑った。

「このままで大丈夫。構わないで」
「(構うだろ!)」

警備班員の心が叫ぶ。
何せあの「教団の神」だ。
彼の功績は噂でしか耳にしていないが、この途方もない存在感は、少なからず知っている。
けれど他班とは異なり、最も関わりも耐性も少ない警備班の、しかも、屋上の警備員が。
これまで遠目にしか知らなかった「神」を突如目の前に置かれれば、戸惑いを隠せる筈もない。
眠気はとうに吹き飛んだ。
ぐ、と伸びをする姿も、ふう、と息を吐いて脱力する姿さえ、目を離せない。
こんなに見つめてしまっては、気が散って眠れないだろう。
そう思うものの、自分の行動を制御出来ないのだ。
が横を向いて体を丸める。

「(あ、……オレと同じ寝方だ)」

警備班員は唇を引き結んで、槍を握り締めた。
何だかむず痒い。
そわそわしながら目を上げれば、同僚と目があった。
彼が声を出さずに喋る。

「(寝、た、か、な? ……うん、多分)」

口の動きを読み取って、慎重に頷いた。
耳を澄ませば、風の音の間に、静かな深い呼吸が聞こえる。
同僚がゆっくり静かに歩いて、此方へやってきた。

「オレさ、こんなに近くで『神様』見たの、初めてなんだけど」
「オレもだよ。……ビビったな」

互いに耳打ちし、頷いて笑い合う。
持ち場に戻って、同僚の足許で眠るから、何とか目を逸らした。









いつもとは違う午後の静寂。
それが再び破られたのは、交代まで残り三十分になろうという頃だった。

「……何だ?」

二人は扉に目を遣った。
神の来訪の名残だろうか、分厚い扉が閉まりきっていない。
その隙間から、騒々しい音が近付いてくる。
同僚が眠るをちらりと見て、扉へ歩を進めた。

「起こしちまうっての……」

呟いて、彼が手を伸ばした時、乱暴に扉が開かれた。
同僚が身を引く。
警備班員は咄嗟に身構えた。
二人の間を通り抜ける、白い影。
探索部隊の団服だ。
屋上を駆け抜け、その探索部隊員は柵へ手を掛けた。

「おい! 何を……!」
「来るなっ!!」

制止の声に、隊員が振り返って牽制を叫ぶ。
荒い呼吸、青ざめた顔色、頬には涙の痕。
よく見れば彼は傷だらけで、頭には包帯を巻かれていた。
動けない二人の後ろから、喧騒が近付く。
バタバタと、数人の探索部隊達が。
遅れて、医療班のドクターと婦長、科学班の班長、更には室長が駆け込んできた。

「待てよ、なあ!」

探索部隊の一人が叫ぶ。

「俺達だって気持ちは分かるけど!」
「分かるんだろ! じゃあ来るなよ!」

怪我をした隊員が、仲間に怒鳴って柵へよじ登った。

「(死ぬ気だ!)」

やっと状況を理解して、警備班員は身震いした。
とんでもない、そんなことをさせる訳にはいかない。
そうは思っても、体が動かない。
下手を打って、彼が衝動的に飛び下りてしまったら。
この高さだ、まず助からないだろう。
彼を追って来た面々も、同じことを思ったのか、身動きを取れずにいた。
ドクターが言う。

「もう続けられないと思うなら、教団を辞めたっていいんだ。そういう道もある」

だから、生きてくれ!
ドクターが叫んだ。
けれど相手は首を横に振って、また一つ、段差を上った。
警備班員は同僚と顔を見合わせる。
残りの段差はあと一つ。
あと一つ上れば、彼と外界を隔てるものは無くなってしまう。

「(……止めるか?)」

目配せに、同僚は真っ青になって首を振った。
動けるか!? 彼の唇が言う。
尤もだ。
首を横へ振り返して、再び隊員に目を遣った。
彼が塔の外を見下ろし、唾を飲む音が聞こえる。
否、自分が唾を飲んだ音かもしれない。
白い団服が風に煽られながら、立ち上がった。
駄目だ、行くな、探索部隊達が叫ぶ。
彼は振り返らない。

「(誰か……神様……!)」

警備班員は固く目を瞑った。



――風が、通り抜けた。



え、と呟いて目を開ける。
淀みない足取りで、探索部隊員に近付く背中。
リーバーが呆然と呟いた。

「…………?」

隊員が振り返る。

、様……!?」

初めて彼の声が揺れた。

「こ、来ないで下さい! 来ないで! 来るな……っ」

黒い団服は、隊員を見遣る気配すらなく、彼に近付いていく。
軽々と柵を乗り越え、とんとん、と段差を上った。
隊員に並び、そして、彼を抜き去り最後の段、屋上の縁に立つ。
飛び下りようとしていた隊員がふらつき、最後の段に右手でしがみついた。
見開いた目で、を見上げている。
凛とした後ろ姿が、動いた。
探索部隊員へと、が顔を向けた。

「一緒に、死んであげるよ」
「……!?」

コムイが叫ぶ。
探索部隊達がざわめく。
婦長が膝から崩れてぺたんと座り込む。
そんな周囲の動揺を意にも介さず、が微笑んだ。

「一人は寂しいだろ?」
「あ、あ、え、……は……」
「ああ、それとも怖い? そうだね。此処、ちょっと高すぎるもんな」

固まって言葉も返せない隊員に頷いて、が再び外を向く。

「じゃあ、俺が先に飛び下りるよ。貴方は後を追ってくればいい。それなら、怖くないだろ?」

じり、と。
黄金の少年が僅かに足を動かした。
もう片足は半分、外に出てしまっている。
ばくばくと速くなる鼓動。
折角間近に「神」を見たというのに、その日に、彼を失うなんて。
視界に涙が滲む。

「(勘弁してくれ!)」

今度こそ駄目だ。
そう思った矢先に、探索部隊員が金切り声で叫んだ。

「や、やめて下さい、様!」

微笑を崩さず、が振り返る。

「どうして?」
「だ……だって、貴方は、貴方、は、……この世に、ひっ、必要な、人で、だから、」

隊員が座り込んで、声を絞り出した。

「……っ、死なないでください……!」

空を背景に、が表情を消す。
沈黙の中、一拍の間を持たせて、彼はくるりと此方を向いた。
上った時と同じように、軽い足音で段差を下りきる。
そして、言った。

「貴方は今、俺を止めてくれた。少なくとも俺にとって、貴方は必要な人だ」

芯のあるこの言葉は、あの探索部隊員に向けられているのに。
自然と、耳に、心の奥に入り込む。

「見て。……ほら、此処には俺と同じように思う人が、こんなにいるんだよ」

す、と手を差し伸べて、が微笑んだ。
ふわりと空気が緩んだ。
隊員の目から、涙が溢れる。
彼が、ガーゼを貼られた傷だらけの手を、に伸ばした。
その手を引いて、黄金は震える体を抱き留める。
膝をついて咽び泣く彼を、優しい声が包んだ。

「ありがとう。……おかえり」

室長が、張り詰めていた息を吐く。
警備班員もやっと、自分が息を止めていたことに気付いた。
深く息を吸って、吐く。
探索部隊達が柵に近寄り、泣きながら笑いながら、柵越しに隊員を小突いた。
隊員がから離れて「ごめん」と泣き笑っている。
探索部隊達と同じように、リーバーがに駆け寄り、柵にしがみついた。

「馬鹿ヤロウ! 何やってんだよ!」
「あはは、ごめん」
「笑い事か! オレはっ、ほ、ほんとに、飛び降りるんじゃ、ないかって……っ」
「え、ちょっと……兄貴? 嘘だろ、泣くなよ」

すっかり慌てふためいて、がリーバーを宥める。
先程までの微笑みを手放したその姿は、何処にでもいる普通の少年のようにも思えて。

「(彼は、こんなに近くにいてくれるんだ)」

祀られる神とは異なるその在り方が。
空間を共有しているという事実が、どうしようもなく誇らしかった。

「なあ、」
「ん?」

泣きじゃくる婦長の肩を、ドクターが軽く抱いている。
その後ろを回り込んで、同僚がやってきた。

「……凄いな、様って」

その言葉に、万感を込めて頷いた。

「ああ。……あれ? お前、呼び方……」
「あっ、いや、その、だってさ、」

同僚が真っ赤になってあたふたと弁解する。
警備班員は、笑ってその背を叩いた。








(主人公17歳)

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