燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









25.本心









いつからか、アイツは任務から帰ると「疲れた」と呟くようになった。









「あの……クロス元帥……怖いです……」

コムイが顔を引き攣らせた。
クロスは彼の胸倉を掴み、持ち上げている。

「だから。な、ん、で、とんぼ返りで任務なんか入れたんだよ。オレが何日我慢してやってると思ってる、あぁ?」

科学班の面々から悲鳴があがったが、クロスは構う事なくコムイを締め上げた。

「元帥! あくまでも生け捕りで!」
「やるなら程々にしてあげてください!」
「そんなのでも一応、必要なんです!」

周囲の声はいつの間にか、悲鳴から応援に変わっている。
みんな酷いよ!! と、コムイ。
どこかでゴーレムが鳴り、リーバーが飛んできた。

「元帥! が帰ってきますよ!」

救われたような顔のコムイを、乱暴に放り投げた。



最近の酒は不味い。
同じ酒なのだが、何と言うべきか、舌触りも辛さも、喉が熱くなる時のその温度も。
何もかもが気に食わない。
一体何日、あの弟子に晩酌をさせていないだろう。
リナリーに代わりをさせれば、きっと本物の兄よりも恐ろしい弟子の銃口が脳天へ向けられる。
頼みのクラウドは長期任務で居ない。
というのに……

「(まだ任務が続くか)」

マリの任地から、急遽応援要請が入ったらしい。
白羽の矢が立ったのはだった。
二つのイノセンス。
一人で二人分か、それ以上の働き。
即戦力を大量に必要とする今、教団が彼をこき使うのは理解出来る。
しかし、イノセンス絡みの任務を五つ続けて命じるのはやり過ぎだ。

「あの……元帥?」
「……何だ」
「やっぱり……怒って、ます?」
「見て分かんねぇなら拳で」
「すみませんっ」

クロスは煙を吐き出した。
手に持った煙草を弄ぶ。
そろそろ探索部隊の舵のもと、が帰って来る筈だ。
医療班が控えているところを見ると、負傷者も連れているのだろう。

「……はぁ……」

コムイの溜め息。
彼の苦悩も、分からないでも無い。
寧ろ彼が居るからこそ、の任務もこの程度で済んでいるのだ。

「この次は休みを入れさせろ」
「ええ……必ず」

確かな返答に、溜飲が下がる。
暗い水路の遠くに、ぼんやりと明かりが見えた。



ふと、晩酌の時の呟きを思い出す。



『……疲れた……』









コムイが、医療班が。
クロス以外の全員が手を振って舟を迎える。
縁に背を凭れていたが身を起こし、手を振り返した。

「おかえり!」

団員の合唱に、は微笑む。

「ただいま。皆、着いたよ」

横で眠っている探索部隊の肩を優しく叩く。
舵をとっていた者以外は、皆が皆、満身創痍だ。
の左手首にも、包帯が覗いている。

、おかえり。申し訳ないんだけど……」

探索部隊が運び出される横で、コムイがすまなそうに切り出した。
全部を聞く前には苦笑する。

「分かった。あ、ちょっと部屋戻るね。ナイフの替え取ってくる」
「うん、本当にごめん」
「いいって」

が立ち上がり、口の端を上げて笑った。

「と、いうわけだから。師匠」

勝ち誇った笑み。
クロスは鼻で笑う。

「はっ。帰って来たら覚えておけよ」
「うげ」

嫌そうな顔で笑ったは、舟から下りてふうっ、と息をついた。

「……疲れた……」
「え?」

普段の彼ならば、こんな場所では決して口にしない言葉。
驚いたコムイが聞き返し、クロスもを窺う。
が、不思議そうにこちらを見た。

「ん、何?」
「いや……何でもないよ」

コムイが慌てて言い繕う。
変なの、と笑って、は階段を上り始めた。









それから二十分。
コムイが階段を見上げる。
腕を指で軽く叩きながら、クロスはティムキャンピーを呼んだ。

「ティム、見てこい」

ゴーレムが勢いよく飛び出した。

「誰かに捕まっちゃったかな……」
「お人よしが……」

苦笑するコムイと、顔を顰めるクロス。
顔を見合わせ、共に溜め息をついたとき、ティムキャンピーが慌てた様子で戻ってきた。
二人の前で旋回し、口を大きく開ける。

「ティム?」

浮かんだ映像は、どこかの廊下。
ふらりと壁に凭れ、崩れ落ちる黒い団服。
倒れたまま微塵も動く様子が無い。
顔は陰になっている。
しかしその黄金色は、紛れも無く。

「っ、医療班!」

通信ゴーレムに叫ぶコムイを置いて、クロスは駆け出した。
信じられない。
身体だけは健康な子供だった筈だ。
ティムの尾を追う。
階段を何段も飛ばして駆け上がり、その廊下の先に、黒い影を見つけた。

!!」

どうか寝ているだけであって欲しい。
傍らに膝をつき、抱え起こす。
真っ白い紙のような顔色。
触れた肌は、氷のように冷たい。
胃がストンと落ちたような気がした。
手首では脈が取れず、呼吸の有無も疑わしい。

「元帥!」

医療班の声が聞こえた。
担架に乗せられた弟子の姿が遠ざかる。
心臓が、早鐘のように打っている。
自分が動揺しているということは、疑いようも無い事実だった。

「(何が……あった……)」

ずっと、気をつけて見ていた筈だった。
彼の代わりに。
彼を救えなかった代わりに、せめて今度こそ、と。

「(何が……あった……?)」



それでも、見逃していた何かが、あったのか。









診察で分かったのは、ただ脈拍が尋常でなく速くなっていたということだけだった。
医療班には原因不明だという。
クロスは眠る人形のような顔を見下ろした。
自分が知っている彼の寝顔は、苦しみに満ちている。
眠りについたほんの何時間かは、確かに安堵しているのに。
今はどちらでもなく、息すらしていないように見える。
安堵でも、せめて苦しみでも。
欠片でも表情を残していてくれたなら。

――これでは、まるで

「(死体じゃねぇか)」

脳裏に一瞬、彼が過ぎり、消えた。
見下ろした先の瞼が震える。


「……」

うっすらと見えた瞳。

、答えろ」

囁く。

「お前……黙ってたな」

揺れる視線を捕える。
今の、目覚めたばかりの彼ならば、あの力は影を潜めているはずだ。
クロスは確信を持ってもう一度聞いた。

「聖典がおかしくなったこと、黙ってたな」

弱かった呼吸が、忙しないものになる。
クロスは片方の肩を掴み、押さえた。
思いがけず、言葉に詰まる。

「……っ、何で言わなかった」

怯えたようにが眉を歪めた。

「だ、て……」



――だって、心配掛けると思ったから



分かっていたのに。
この馬鹿はそれだけを気にかけて生きてきたと、自分だけが知っていたのに。









病室のドアが、そっと開かれた。滑るスリッパの音。

「……どう、ですか……?」
「今眠った」

クロスは金糸を梳いて、溜め息をついた。
コムイが隣に座った。

「原因は?」
「イノセンス研究の功労者に聞いた方が、確かだろうな」

まさにそれで室長へ上り詰めた男は、驚いた表情でこちらを見た。

「まさか……! 寄生型の副作用ということですか!?」
「うるせぇ、まだ仮定だ」

慌ててコムイが口を噤む。
クロスはまた金糸を梳いた。
暫く彼は目覚めないだろう。
イノセンスの症状はともかく、もう一週間はまともに眠っていないはずだ。

「確かに寄生型は短命ですが……こんな症例は聞いたことがありませんよ?」
「もともとサンプルが少ないんだ、正確なデータなんか出せるか」

普通、寄生型の副作用に、自覚症状は無い。
イノセンスの寄生する場所が、内臓だった例もまた、無い。

「当分中央には伏せとけ。言っても任務軽減には繋がらない」

コムイが頷いた。
顎に手を当て、真剣に悩み始める。
クロスは呟くように言った。

「……厄介なことになったな……」

確証は、まだ無い。
だが確信はある。

「聖典の神は……世界から、神を奪うつもりだ」







彼が無意識に漏らした本心に、気付いていたのに。








(主人公15歳)

100206