燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









20.もしも、あの時









それは記憶の片隅に追いやられる、小さな出来事の筈だった。



「……、……い、……?」

視察に来た中央庁と揉めて、クロスは腹いせに教団を抜け出していた。
足の赴くまま、通り掛かりに入った酒場で、どうやらうたた寝をしていたらしい。
先程から何だか声が聞こえる気がする。

「……っと? ……ぁ、起きろって」

思いきり揺さ振られ、カウンターに頭をぶつけそうになる。
クロスは目を開けた。
全く、不愉快だ。

「あぁ?」

言った瞬間に、目の前にゴン、と音を立ててグラスが置かれた。
横に座るとびきり若い男が、憤然と自分を見ている。
どうやらグラスは彼が置いたものらしく、自分を揺すっていたのも彼のようだ。

「あぁ? じゃない。散々人の肩借りといて、何様のつもりだ」

全く……と、男は自分のグラスに手を伸ばし静かに中身を呑んだ。
クロスは男が自分の前に置いたグラスを横目で見る。
こちらは水のようだ。
しかしそれには手を付けず、クロスは男に顔を向けた。
この男、自分が来たときには居なかった筈だ。
視線を感じたのか、男は顔を動かさずにクロスを見た。

「謝る気にでも?」
「肩借りたって何の話だ?」
「そこからか」

大きな溜め息。
呆れも通り越し、疲れた顔で男はクロスから視線を外す。

「寝てたアンタがこっちに寄り掛かってきたって話」
「どかせば良かったじゃねーか」
「重過ぎんだよ」

フン、と鼻を鳴らして男はグラスに口を付ける。
クロスも手元の水を飲んだ。

「軟弱だな」
「言ってろ。学者に筋力を求めるな」

彼は軽く笑って、カウンターに置いていた便箋にペンを走らせた。

「それは?」
「便箋に計算する人間は稀だな」
「……そうだな」

どうも調子が掴みづらい。
男は時折笑みを浮かべながら、ペンを動かす。
書かれていく言葉は英語では無く、加えて、その余りにも流麗な筆致に、クロスは思わず見入ってしまった。
しばらくして男が固まり、こちらを見た。

「アンタは俺にコレを書かせない気か?」
「あ? 気にしないで書け」
「気になるに決まってるだろ」
「そりゃあ悪かったな」
「全っ然、謝ってるように聞こえねぇ……」

凝り固まった教団から抜け出た先で、なかなか面白い人間に出会ったものだ。
なんだかんだでこの男、肩を貸した一件についてもう話題にしていない。

「お前、国籍は?」
「英国」
「……それ何語だ?」
「バスク」

男は笑った。

「学者だって、言ったろ?」

なるほど、と頷いて、クロスはまた水を飲んだ。
口寂しいが、ここで酒を頼めば間違いなく隣に笑われるだろうと確信し、何とか堪える。

「そんな訳分かんねぇ言葉で、手紙書く相手いるのか?」
「ああ、息子に」



思わず、水を噴いた。
彼は素早く便箋を庇い、身を引いて、咳込むクロスを白い目で見る。

「あー……ったく、何やってんだ」
「息子? 歳は?」

クロスは畳み掛けるように聞いた。
男は怪訝な顔で頷き、グラスを手に取る。

「七歳。娘も居るけど?」
「お前……いくつだ……?」
「今年で三十一」

若すぎる。
見た目が若すぎる。
そう言うと、彼は笑った。
よく笑う奴だ。

「アンタも相当年齢不詳じゃないか」

男はグラスを傾ける。
カラン、と氷が音を立て、彼はカウンターの中へ追加の注文を入れた。

「今、息子とゲームしてるんだよ」
「ゲーム?」

男の前に酒を、そして気を利かせたのか、店主がクロスの前に、もう一つグラスを置いてくれた。
中身は水だった。

「俺は毎回、違う言語で手紙を書くんだ。で、……息子は辞書を使いつつ同じ言語で俺に返事を出す」
「……七歳だろ?」

彼が頷いた。
嬉しそうに、そして少し自慢げに笑う。

「俺も最初は無理だと思ったんだけどな。いい意味で予想が外れた」
「娘もか?」

男は首を横に振る。

「五歳は流石になぁ」

七歳でも大差は無いだろうと考えながら、クロスは水を飲んだ。
段々と口寂しい感じが消えていく。
見たところ、男は相当強い酒を呑んでいるようだが、顔も赤くならず、酔っている様子も見られなかった。

「ところでアンタ、職業は?」
「当ててみるか?」
「十字架下げてるし……神父とか? いや、まさかな」
「何だそのまさかって」
「え、本当に神父なのか?」

男が心の底から驚いた顔をする。
クロスは少し答えに困った。

「科学者兼……聖職者ってところか」
「科学と宗教って……どう考えても相入れないだろ」
「うるせぇ。両方必要な時もあるんだよ」

ほんとかよ、と呟き、全く信じていない風に彼は笑う。
グラスを呷り、カウンターに再び便箋を広げた。

「アンタのこと手紙に書くことにする」
「あ?」
「俺の周りには居なかったタイプだから」

新しい便箋を取り出し、彼は何行か文を書いた。
再び伺える、美しい筆跡。
ふと彼が顔を上げた。

「そういやアンタ、名前は?」
「クロス・マリアン」
「綴りは……こうだな?」

先に使っていた便箋の端に、英語表記で名前が綴られた。

「ああ」

男は二、三度頷き、文の続きにクロスの名前を書いた。
クロスはグラスを傾ける。
氷にひびが入る、小さな音がした。

「お前の名前は?」

尋ねれば、男は顔を上げた。
掠めるような爽やかな笑顔と、明かりに輝く濃い金髪が目に焼き付いた。

「モージス・



それは記憶の片隅に追いやられる、小さな出来事の筈だった。



それなのに









もしも、あの時
キミに出会っていなかったならば
こうして運命を狂わせることも
無かったのかもしれない








(主人公7歳)

091224