燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
02.髪結い
「おい、この化学式おかしいぞ」
「誰か辞書持ってる人ー」
「室長が居ません!」
「捜せー!!」
あちこちで飛び交う声と、それを掻き消さんばかりのペンの音。
今日も慌ただしい科学班の一角で、は分厚い書物のページをまた一枚めくった。
左手で文字を追っては、右手で即座に英語に訳す。
そんな動作も、すっかり板についている。
いつもの黒い団服は隣の椅子の背に掛けているので、私服姿のは、遠目に見れば科学班員と見分けがつかないだろう。
どこかで、誰かが転ぶ派手な音がした。
ひたすら謝る誰かと、怒っているんだか心配しているんだか分からない相手の言葉。
よくあることだが、は小さく笑ってペンを持ち直した。
「ー!」
「ここー」
自分を呼ぶ声に、左手を挙げる。
一度手を止めて、向かってくるリーバーを迎えた。
「お疲れ、兄貴。どうかした?」
「そっち後回しでいいから、これ先に訳してくれるか?」
「ん、分かった」
リーバーから本を受け取って、訳していた本に重ねる。
「悪いな、いつも手伝ってもらって」
「いいんだって。俺が好きでやってんだから」
笑って言うと、リーバーも苦笑する。
「コーヒー飲む人ー」
遠くから聞こえたリナリーの声。
応えるように二人揃って手を挙げて、はリーバーに言った。
「そういう事はリナリーに言ってやって」
「そうだな」
服はいつも通り団服で、珍しく髪を下ろしたリナリーが歩いてくる。
今日はトレーではなく、カートにコーヒーを載せてきたようだ。
その手元を見て、は立ち上がった。
「あ、お兄ちゃん」
「左手、どうした?」
「ちょっとね。朝、ガラスで切っちゃって」
リーバーが眉を歪める。
「痛そうだな、大丈夫か?」
リナリーは髪を耳にかけながら笑った。
「うん。見た目ほど酷くはないの」
ありがと、と言って、リーバーにカップを渡す。
そして、カートの下の段からカップを取ろうと身を屈め、リナリーは再び右手を髪にやった。
「だから今日は髪下ろしてるのか」
コーヒーを飲んだリーバーが言うと、リナリーは立ち上がりながら苦笑する。
「結ぶ前の事だったから。はい、お兄ちゃん」
「ありがとう。リナリー」
「なに?」
小首を傾げると、流れる黒髪。
はカップに口をつけながら、その髪に触れた。
「髪、結んであげようか」
その言葉に、リナリーは嬉しそうに、リーバーは驚いたように、目を丸くした。
「本当?」
「出来んのか?」
は笑ってカップを置く。
「出来るよ、二つ結びなら。櫛と紐、持ってる?」
慌ててポケットに手を入れたリナリーの背を押し、彼女を椅子に座らせる。
「お願いします」
「承りました」
リナリーから櫛を受け取って、髪に通す。
リーバーは物珍しそうに見つめているが、は慣れた手つきで髪を分け、片側を上に持ち上げた。
丁寧に、素早く髪を纏め、紐で結う。
あっという間に片方が出来上がった。
「上手いもんだな」
感心したようなリーバー。
反対側を上に上げながら、は少しだけ目を細めて言った。
「よくやってたから」
リナリーの黒髪が、灯りを受けて光の輪をつくる。
「にしてもリナリーは本当に綺麗な髪してるよな……はい、終わったよ」
「あ、ありがと……」
リナリーの顔が真っ赤になっていたのは、からは見えなかった。
(主人公16歳)
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