燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
1st.Anniversary「ウィークポイント」
温い、否、熱い空気が肌に纏わり付く。
流れる汗は、拭っても拭っても止まらない。
若干重くなった服をバタバタと扇がせて、ラビはふぃー、と息をついた。
「あっついさ」
常日頃、快適な室温を保ってくれている教団の空調設備が、今日、壊れた。
ただ動かなくなるのなら、誰だって大して気にはしなかったろう。
だが、サウナのような温度の風を排出されてしまえば、話は別だ。
「壁が歪んで見えるー」
しっかし暑いさ。
口は呟き、足は自然と、涼を求めて食堂へ向かう。
人間、同じ事を考えるらしい。
設備復旧に動いているはずの科学班員とも、何回か擦れ違った。
探索部隊なんかは、きっと群がっているのだろう。
「(さっさと退散するに限るさね)」
こっそり笑って汗を拭い、ラビは角を曲がった。
「ジェリーちゃ」
「さーん!」
「しっかりしてー!」
団員達が築く人垣から、悲鳴のような声が聞こえる。
中には半泣きで彼の名を叫んでいる声があり、ラビもつい首を巡らせた。
ちょっと通してと声を掛ければ、立場柄、簡単に道が出来る。
人垣を抜けると、テーブルに突っ伏す馴染みの金色。
近付いて、背を叩く。
「、大丈夫さー?」
「……だめ……やめて……吐く……」
「そんなに!?」
呻き声は、いつもより大分トーンが低い。
ラビは慌てて手を離した。
「はーい、どいてどいてー」
お盆に涼し気なグラスを乗せたジェリーが、片手で汗を拭きながらやってくる。
「おっまちどーん! はい、起きて起きて!」
「んぅ……」
が僅かに顔を上げ、ジェリーの差し出すお盆に手を伸ばした。
掴んだグラスには、氷入りのアイスティー。
彼はそっとストローを外し、直に口をつけ、ぐいとそれを傾けた。
一気に空になったグラスへ、ジェリーがすかさず二杯目を注ぐ。
それも一度に半分以上空け、が再びテーブルに倒れた。
先程と違うのは、一緒にお盆に乗せられていた氷の入った容器を抱きしめている点。
「……ジェリー」
「なぁに?」
「大好き」
「私も愛してるわー!」
きゃーっ! と歓声を上げ、ジェリーが彼の頭をがしがし撫で回した。
周囲の団員からはジェリーを羨む声が引っ切りなしに聞こえる。
は、氷の容器にぴとりと頬をつけ、気持ち良さそうに目を閉じていた。
「大丈夫さー?」
「んー……ん? ラビ?」
ぱちり、漆黒の双眸が現れる。
丸い目と見つめ合い、若干呆れながらラビは笑った。
「オレ……さっきから居たさ」
「みたい、だな。悪い」
気付かれなかった落胆は、柔らかな苦笑で帳消しにしておく。
「ジェリー、ラビにも一杯あげて」
「はいはい、ちょっと待ってねー」
グラスを取りに、ジェリーが厨房へ引き換えしていった。
思い返せばこの暑さの中、彼女は異様に元気だ。
ラビはの隣の席を引き、腰掛けた。
は少し体を起こして、グラスにストローを差している。
「暑いの苦手だっけ?」
ストローを咥える彼に聞くと、漆黒だけがこちらに向けられた。
小さな首肯。
先程の勢いは無いものの、ぐぐいと紅茶が吸い込まれていく。
「北の出身さ?」
「南ではないよ」
「へぇ」
彼の「出身」なんて話を聞くのは初めてだ。
どの辺りさ? オレ、知ってるかも。
そう聞こうとした矢先、大きなグラスに注がれたコーラに視線を阻まれた。
「おまちどーん! はぁい、これコーラね」
「ぅお! サンキューさ、ジェリーちゃん!」
思わず興味を移してしまう。
炭酸の弾ける音。
回る氷にヒビの入る音。
見ているだけで、気持ちがぐっと涼しくなる。
グラスの外側についた水滴すら愛おしい。
「で、こっちはに」
「え? ……あっ、アイス!」
「は!? ちょ、ま、ズルイさ!」
水色のアイスキャンディーが、に手渡される。
金色の彼が、漆黒を釘付けに、表情を輝かせてそれを受け取った。
普段張りつめているせいか、彼は変な所で気を抜いてしまうと最近知った。
「わ、わぁ……ありがとう!」
「いいのよー」
表面についた白く細かな霜をうっとり見つめ、しかし彼は躊躇いなく齧りついた。
幸せそうな笑顔。周囲の団員から、今度はを羨む声が聞こえた。
「あら、皆も食べる? あるわよ」
誰も注文しないんだからー、と笑って言いながら、ジェリーが厨房へ戻る。
人垣の大半がそれに続いた。
「お前は? いいの?」
「後で行くさ」
勢いよくコーラを啜って笑うと、悪戯な笑みが返ってきた。
「無くなるかもよ?」
「や、そりゃねぇだろ。大丈夫さ」
「そうかなぁ」
俺は構わないけど。
笑う彼に若干の不安を掻き立てられるが、敢えて無視をする。
が三杯目を注ぎながら、ストローで氷を回した。
のんびりそれを眺め、ラビは頭の後ろで手を組んだ。
汗で濡れたのですぐやめた。
「こんな暑いなら、任務に当たってたかったさ」
「んー……どっちもどっちかな」
苦笑を零し、がふと顔を上げる。
「リナリーは任務だっけ?」
「多分そうさ。帰って来たの見てねぇし」
「ユウは?」
ラビは咥えたストローで遊びながら、宙を見た。
「確か待機中さ」
「食堂で見かけないんだけど」
「……何してんさ」
いくら神田といえど、飲まず食わずで過ごしていられる訳はない。
普段の奴は、何をしていたっけ?
「はぁ……」
何だか簡単に想像出来て、ラビは重たく溜息をついた。
見ればも、眉間を押さえて溜息をついている。
二人はのろのろと、しかしほぼ同時に立ち上がった。
「さーて。修練場行くかぁ……」
「ついてくさぁ……」
きっとこの熱い中、修練場で干からびているに違いない。
グラスと氷を返しにカウンターへ向かう。
「やだ、もう行っちゃうの?」
「後でまた来るよ、とりあえずごちそうさま」
微笑むの隣で、ラビもグラスをカウンターへ返した。
「ジェリーちゃん、アイス欲しいさ」
「あら、もう無くなっちゃったのよ」
「ええっ!? そりゃねぇさ!」
「あっはは! だから言ったのに!」
腹を抱えてが笑う。
恨めしく見遣ると、べ、と舌を出された。
「作っておいてあげるから」
「頼むさ、とっといて」
「俺のもー。今度は林檎で」
「お前まだ食うんさ!?」
呆れて額に手を当てる。
あはは! と笑う彼に袖を引かれ、ラビは食堂を後にした。
廊下に出た二人は思わず顔を見合わせた。
食堂と比べて、遥かに涼しい。
「何これ。復旧したのかな」
「いや?」
ラビは辺りを見回した。
「多分、食堂に男が密集しすぎてたんさ」
「あ、そっか」
あの人口密度が、食堂の温度を二、三度上げていたのだろう。
特には集団に囲まれるので、余計暑かったのだ。
「あーあ、あの中に一人でも女が居たらなぁ」
「居たじゃん」
「え、誰!? 探索部隊!?」
「ジェリー」
真面目な顔で返されて、急浮上した気分が地に墜ちる。
「それは、その……」
一応、彼女は男なのだけれど。
言い澱むと、が軽く微笑んだ。
「分かってるけど。……今以上は、要らない」
伏し目。頬を伝う汗が――
「(あれ……?)」
ラビは目を擦る。
「(……見間違いさ、ね)」
彼が、泣く訳がない。
「はぁっ、やっと着いた……暑い……」
気付けば修練場のフロアで、が膝に手をついている。
遅れて階段を上り切ったラビは、腰に手を当てて背を伸ばした。
「っあー……オレ達親父臭いさ、なんかへこむ」
「言うな。これは暑さのせいだ」
袖口で軽く汗を拭い、二人は修練場の扉の前に立つ。
「中でぶっ倒れてるに一票さ」
「じゃあ、起きてるけどおかしくなってる、に一票」
互いにそう言ってから、ラビは賭けで彼に勝てないことを思い出した。
は既に、扉を開けていた。
「おーい、ユ……うわっ」
「ん? ……わ、何さ!?」
中から溢れ出したのは、食堂の比ではない熱気。
これでは本物のサウナだ。
あまりの暑さによろめくの背を支え、ラビは扉を大きく開け放った。
「ユウー! 生きてるさぁー!?」
声を掛けるも返事はなく、しかし中には人影自体が見当たらない。
「あれ? 居ないさ」
「……気配も無いな」
まさか、の勘が外れるなんて。
二人は呆然と修練場を見渡し、唸った。
「あいつ、どこ行った?」
「つーか。まーさか外の森に居るとは思わなかったさ」
やっと設備が復旧し、いつもより少し強い冷房の効いた談話室。
ラビは床に座り、ソファにぐったり凭れた。
向かい側のソファには、神田が涼しい顔をして座っている。
「どこに居ようが、俺の勝手だろ」
ラビの凭れるソファの上では、氷嚢を額に乗せたが唸っている。
あの後、二人は教団中を歩き回って神田を捜した。
途中、復旧をサボるコムイを見つけ、追い回し、科学班に連れ戻しもした。
そしてやっと神田を見つけた時には、暑さにやられたがダウンしていた。
「……心配して……損した……」
「ちっ、誰も頼んじゃいね――ッ!」
神田が言い終わる前に、高速で投げられた氷嚢が彼を襲う。
ソファから転げ落ちるほど思い切り頭を強打されたからか、流石の神田も涙目だ。
しかし勢いよく起き上がり、頭を摩りつつ怒鳴った。
「テメェ!!」
「うるせぇ怒鳴るな頭が痛い」
「知るか!!」
神田が氷嚢を叩き付けるように投げ返す。
瞬時にがばりと起き上がったが、見事に氷嚢を掴み取った。
出会ってまだ半年だが、ラビの記憶の中でも最高に不機嫌な表情。
頭痛は大丈夫なのかと心配したくなるほどの大声で、が怒鳴り返した。
「ああ!? 黙れっつってんだろ蕎麦王女!」
「は!? お、王女って……王女って何だ茹で林檎!!」
「王女! 王、女……!!」
ラビは思わず腹を抱えて笑った。
神田は一度叫んだ後、怒りを言葉に出来なかったらしく口を虚しく開閉させている。
本人は「あ、噛んだ」と、いたって暢気に呟いて、再びソファに寝転がった。
「て、てめぇッ!」
「いやぁ、ナイス言い違いさー」
「だろー」
響く怒声もなんのその、が満足気に氷嚢を額へ乗せた。
神田一人が騒ぐ中、二人は「あはは」と笑い合う。
「そうだ、ラビ」
「何さ?」
「次のお湯掛け大会は、暑さ我慢に変更しようぜ」
「……それは……やめといた方がいいと思うさ……」
(主人公16歳)
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