燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
10th. & 90,000hit Anniversary-3「陽だまりへ、ようこそ」
「ケーキ食べる人ー!」
リナリーの声が、科学班のフロアを渡る。
今まさに定位置の椅子に座ろうとしていたは、顔を上げた。
隣の席ではリーバーが肩をバキバキと回し、手を挙げている。
が兄貴と慕う彼は、此方を見てにやりと笑った。
「丁度いいタイミングだったな」
「うーん、なんか謀ったみたいで悪いなぁ……」
このタイミングで科学班を訪れたのは、本当に偶然だった。
任務から帰還し、医務室の圧から逃れて、ようやく戦闘状態から解放されたような心持ちである。
翻訳作業を手伝いながら、自分を日常に戻そうと思っていたのだ。
「はいっ、リーバー班長、お待たせ!」
「おー! 美味そうだ。ありがとな」
「どういたしまして。ホイップクリームも乗せる?」
「ああ。リナリー、にも一皿やってくれ」
「勿論! おかえり、お兄ちゃん。はい、どうぞ」
まだ何の手伝いもしていない自分だが、ちゃっかり一皿貰ってしまった。
「ただいま。ごめん、リナリー、俺にまで」
「いいのいいの。クリーム乗せる?」
リナリーが首を傾げると、左右で結わかれた髪が肩をするりと滑った。
小さなザッハトルテはワゴンに並び、彼女はボウルいっぱいの生クリームを抱えている。
「それ、甘い?」
「ううん、そんなにお砂糖入れてない。市場に新しく出店した酪農家さんのとこから仕入れたんだって」
「へえ、ってことはジェリー最新のオススメなんだ」
「そうなの。試食してすぐ買ったって、作りながら教えてもらったよ」
ならば、美味しいに決まっている。
はリナリーに頼んで、皿の端にクリームを乗せてもらった。
「あんなに焼き林檎だのアップルパイだの食べてるのに、そういうところ割と気にするよな」
先に食べ始めていたリーバーが可笑しそうに笑う。
「林檎は別だよ。あれは素材の甘さなんだってば」
「んー、林檎のお菓子もお砂糖は使ってるんだよ?」
リナリーにまで苦笑されてしまった。
は自分の拘りについて説明することを諦めて、ザッハトルテにフォークを入れる。
甘いものも美味しく食べるけれど、どちらかというと辛いものの方が好みだ。
甘すぎると飽きてしまう。
口に入れたケーキは、甘い中に苦みもあって好みの味だった。
これなら、クリームがもっと甘くてもいける。
もぐもぐと噛みしめながら、リナリーへ笑顔で頷く。
「美味しい?」
「うん。ああ、これ美味い。なあ、兄貴?」
「腕上げたな、リナリー。美味しいよ」
「うふふ、よかった!」
嬉しそうなリナリーを見ていたら、更にケーキが美味しくなってきた。
そんな折に、空気に引っかかるものがあった。
敵意に似ている、けれど殺意ではない。
切迫した危険でもないだろう。
ジェリーおすすめのクリームを掬いとってケーキに載せながら、は気配の方向へ首を捻った。
目が合った相手は、漆黒の髪に、日本の伝統衣装を纏った一体の人形。
「どうしたの、お兄ちゃん」
「あれ、何かな」
「お人形? ……綺麗……えっ、でもこっち見てる……」
「ああ、あれな。こないだマリが任地から持ち帰った『呪いの人形』だよ」
ケーキに合わせた紅茶を飲みながら、リーバーが返す。
ひっと息を飲んだリナリーが、の二の腕をぎゅっと掴んだ。
宥めるようにとんとんと手を叩いてやる。
「『呪いの人形』?」
「ああ。これから解析するんだけどな。何でも、髪が伸びたり勝手に動いたりするらしい」
フランスの屋敷で仕舞い込まれていた日本人形らしい。
「あっ、フランスって今、日本のもの流行ってるのよね……」
怯えながらも、そう口にするリナリーは流石に流行に敏感だ。
「髪が伸びるっていうのは、まあ材質が分かれば理由も分かるだろうが……動くっていうのはなぁ?」
「やだやだっ、班長、怖い話やめて」
「あの手付かずの山に置いてあるってことは、まだ暫くはあのままってことだよね」
「そういうことになるな」
も紅茶を飲んで、目を逸らす。
食べかけのケーキの皿を机の端に置き、空いたスペースに本を広げた。
リナリーがぶんぶん首を振る。
「わっ、私、もう行くから!」
可愛らしい悲鳴を上げて、彼女は司令室へ逃げていってしまった。
「当分この部屋に来てくれないかも」
「やっちまった……あの人形の解析順早めるように、言ってくるよ……」
リーバーが立ち上がった。
は笑って見送り、本に目を落とす。
ざっと斜め読みして内容を把握し、一旦栞を挟んだ。
ペンと紙を用意して、ふと机の端に目を遣る。
皿の上のクリームが緩くなっていた。
「(先に食べちゃった方がいいかな)」
皿を引き寄せると、膝の上に急に重さが加わった。
空気には、ピリッとした緊張が走る。
膝を見ると、先程の日本人形が器用に膝に乗っていた。
「(いつの間に)」
「よーし、これで明日には解析に回せる。リナリーにも言ってこなきゃな――って、」
そう言って戻ってきたリーバーが、と人形を見て目を見開いた。
「は!? ウソだろ、何でここに!?」
「なんか、気付いたら乗ってた」
「本当に動くのかよ……! おい、お前ら!」
周囲に人形が動いた事実を伝える彼の傍らで、は人形と目を合わせてみた。
「ケーキ食べてみたかったの? なんて、まさかね」
小さな声で訊ねるが、当然答えはない。
代わりに、さみしい、さみしい、と空気が訴える。
は、艶やかな黒髪に覆われた頭をそっと撫でた。
「此処は賑やかでいいだろ。……大丈夫。きっと、君も気に入るよ」
190808
十周年&90,000hit記念、神無月様からのリクエストでした。ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします!