燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
10th. & 90,000hit Anniversary-2「たった一人、君だけ」
村一番と謳われた女は、クロスがこれまでの人生で見てきた数多くの女性の中でも断トツに美しかった。
そんな美女が目の前にいたというのに。
あの時のクロスは、柱の陰から此方を覗く黄金に目も心も鷲掴みにされ、釘付けにされたのだ。
・。
酒場仲間のモージスの息子。
父の偏った教育により八歳を前にして多言語を操る少年。
そんな前情報で出会った子供は、一瞬にしてクロスの意識と心のど真ん中に暴力的な存在感を植え付けた。
だから、自然とこういう物言いになる。
「おい、モージス。あの金色はどこ行った?」
「この家はお前以外全員が金色だが?」
ボウルと泡立て器を抱えたモージスに呆れ返った表情で返され、柄にもなく言葉を失った。
みじん切りの手を止めて震えながら笑うのは、隣家の老女アンナ。
ソファに身を横たえてうふふと笑ったのは、モージスの妻グロリア。
母親の腹に上半身を投げ出した不思議な体勢で昼寝している、モージスの娘。
色味は違えど金髪に黒の瞳だ。
この村は色味の個人差はあれど、皆がその外見なのだと、知っていたのに。
「クロスさん、誰のことを仰って……もしかしてのことかしら?」
「ああ。さっきまでとそこにいただろ?」
美女の問いに真面目に答えただけだというのに、モージスからは訝しげな視線を送られる。
「お前が男の事を気にするのを初めて見たぞ、俺は」
「そういうんじゃねえよ」
「そういうんだったら即座に追い出すぞ。俺の息子に懸想をするな」
「二人とも仲良しねぇ」
みじん切りを再開したアンナが和やかに笑う。
グロリアが宙を見て呟いた。
「多分、お部屋だと思うのだけれど……」
見てきましょうか、と起き上がろうとするので、クロスは素早く手でそれを制する。
「いや、いい。オレが見てきてやるよ」
目眩を起こして倒れたばかりの女性に無理をさせるのはクロスの本意ではない。
その一心で申し出ると、よく言ったとばかりにモージスが頷いた。
「! いるか?」
教えられた部屋の戸を遠慮もなく開ける。
幼い兄妹が共用する部屋は、ベッドにクロゼット、机があるだけだ。
片方のベッドには服が広げられていて、そちらはのものだとひと目で分かる。
机の上のハンガリー語の辞書は先程まで使っていた様子で、こちらはの机なのだろう。
部屋の中には動きのあるものは何も無く、此処にはいないらしいとクロスは早々に判断する。
では、どこへ行ったのか。
ふと窓の外を見ると、夕焼けの中に金色が過ぎった。
玄関から外へ出る。
裏庭に回ると、暖炉に使うための薪と思われる木材が幾つも転がっていた。
その中心で、華奢な体躯が佇んでいる。
「(あれだ)」
クロスはごくりと唾を飲み込んだ。
「(あれが、黄金だ)」
――あれこそが、クロスに刻み込まれた黄金だ。
目を離せない。
心を縛り付けられる。
そんな苛烈な気配を放つ少年が、袖を捲り両手で斧を握り締めた。
よろめきながら、未発達な細腕をぶん、と振り上げる。
「おいっ――!」
クロスは一足飛びに駆け寄り、彼の腕と斧の柄を同時に掴んだ。
「うわっ!?」
重しが消えて身軽になったが、慌てた声を上げて尻餅をつく。
真上を見上げた彼の漆黒が、クロスを映した。
「おじさんっ? 何してるの?」
「こっちの台詞だ、危ねェだろ!」
あのまま、重さを支えきれずに斧を振り下ろせば、恐らく刃先が足に直撃していた。
肝が冷えるとはこのことで、今ほっと胸を撫で下ろす自分がいることを自覚する。
「いいか、振り下ろす時に右手をずらせ。そんなに上まで振り上げなくていい、ほら、見てろ!」
クロスは取り上げた斧を軽く振り上げ、下ろした。
真っ二つに割れた木材に、尻餅をついたままのが歓声を上げる。
「おじさんすごーい!」
「あったりまえだ。つーか、一人で斧持つのは流石にやめろ、見てて危なっかしい」
「こ、こないだトーマスのおじさんに教えてもらったから、できるもん」
「誰だトーマスって。教わったって言ってもなぁ、こんなひょろひょろの腕でどう持つってんだ」
「持ててたもんっ。ちゃんとギュッて持ってたもん!」
手首を片手で掴んでみる。
子供を間近で見たのは久方振りなので、標準的な腕がどんなものかがよく分からない。
「ちゃんと食ってんのか? お前」
「食べてる!」
憤慨したが拳を握って抗議するが、怖くもなんともない。
「だから持ち方が違うんだっつうの。大体なぁ、モージスもオレもいるだろ。何で言わないんだ」
の漆黒がキッとクロスを睨みつける。
クロスの呼吸に必要な空気まで見境なく、空気は全て彼の手に束ねられた。
「だって!」
そうして声を上げてから、急に視線を彷徨わせる。
「だって、……お父さんには、お母さんのそばにいてほしいもん……」
空気が急速に力を失って、緊張が解かれた。
クロスも自由になった酸素をすうっと吸い込んで、俯いた少年の頭にそっと手を置いてやる。
「暖炉のための薪なら、オレが手伝ってやるから」
手の下の黄金がほんの僅かにクロスへ擦り寄って頷いた。
「……びっくりした」
「そうだな。オレも驚いた」
「……お母さん、さいきん元気だったのに……」
明日のお前の誕生日に合わせて、体調整えてるところだったのだろう。
そう言うことは可能だ。
けれど。
クロスは手を頭から背中へ移して、黄金を優しく抱き締めた。
「明日が楽しみなんだろうよ」
小さな手がそろりそろりとクロスの背に回されて、団服と髪を握る。
「だからその前にお前が怪我でもしたら、どうしようもないだろうが」
「……おじさん、……いっしょに、まき割り……やってくれる?」
胸より下の場所から、黄金の象徴がクロスを見上げた。
いじらしい奴だ。
クロスはわしわしと金髪をかき混ぜて、仕方ねぇなと笑ってやった。
「見てろ。モージスよりカッコイイ所見せてやるよ」
「お父さんの方がかっこいいよ?」
「クソガキめ……!」
190808
十周年&90,000hit記念、螢様からのリクエストでした。ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします!