燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









Another story「あなたに注ぐ」









こんこん、と軽いノックの音で、意識は簡単に浮上した。
薄目で見た視界は、明るい。
ああ、今日は晴れているのか。
ああ、もうこんなに日が高いのか。
昨日は一体、いつ寝たんだっけ。
ああ、気持ち悪いくらい体が軽い。
ぼんやりと考えていると、再度ノックの音が聞こえた。
小さく軋みながら開く扉。
視線を遣ると、自分と同じ漆黒を見つけた。
向こうも覗かせた顔を綻ばせる。

「おはよ、お兄ちゃん」
「おはよう、

一般的な時間に起きたのだろうは、エプロンを掛けた姿で此方へやってきた。
はやっと毛布を退けて起き上がる。
互いに頬へ口付けて、がベッドに腰掛けた。
妹が朝一番でをじっと見つめるのは、今に始まったことではない。
エプロンの紐に絡まった髪を引っ張り出してやりながら、は聞いた。

「何作ってたの?」
「何だと思う?」
「うーん……クッキー?」

しかし、それにしては彼女から甘い匂いが感じられない。
取り敢えずよく作られる菓子の名を挙げると、が首を捻った。

「難しいとこだけど、正解かなぁ……あのね、そば粉のボーロ作ってたの」
「蕎麦? ……蕎麦って? ユウのよく食べる、あれ?」
「うんっ」

軽やかに立ち上がった彼女のスカートが、ふわりと広がる。

「ジェリーさんに教わったの。結構美味しいんだよ」
「ふうん。着替えたら行くよ」

待ってるね、と機嫌よく微笑みながら、が部屋を出ていった。
今日はではなく、神田のためのお菓子作りだったらしい。

「(修練場でしごいてやろう)」

細やかな八つ当たりを計画し、は立ち上がって、洋箪笥を開けた。
手早く着替えを済ませ、部屋を出る。
曲がり角で、先を行く背中に声を掛けた。

「ラビ」
「ん? お、

隣に並ぶと、ラビの腹の虫が鳴いた。

「……お前も今起きたのか?」
「違う違う、朝食ってねぇんさ」

訝るに、彼は力なく答える。
聞けば、気になる本を読み耽っていたのだという。

「今食堂行くと、蕎麦のボーロがあるらしいよ」
「何それ……え、あれ麺じゃねぇの?」
「よく分かんないけど、が作ったって」

へぇ、と相槌を打って、ラビがニヤリと笑った。
頭の後ろで手を組み、意味深な笑顔で此方を見下ろす。

「ユウちゃんも隅に置けねぇさ」

も笑顔を返した。

「全くだ、後でしばく」
「怖っ」

数人の団員達と挨拶を交わしながら食堂に入ると、カウンターからぶんぶんと手を振られた。
あの逞しい腕は間違いなく、ジェリーだ。

「おはよう、ジェリー」
「んーっ! 久し振り、! 会いたかったわ!」

熱い言葉と共に抱き締められるのも実に久々である。
は笑いながら彼女を抱き返した。
ラビが横からひょこっと顔を出す。

「オレもいるさ、ジェリーちゃん。おっはよ」
「ちゃんと知ってるわよ、ラビ。おはよ、珍しいじゃない? こんな時間に」

明るい笑顔と、恐らくウィンク。
へへ、とラビが笑った。

「朝食いそびれたんさ。オレAセット。は?」
「焼き林檎三つと、ポトフと、……あ、パスタも食べたい。あと……」

思い付くままに告げたメニューを、ジェリーは間違いなく厨房に伝えてくれた。
準備されていた林檎を手に取った彼女に、一つ尋ねる。

「ジェリー、は? 朝から邪魔してたと思うけど」
なら奥よー。第二弾が焼き上がった頃だから」

はありがとう、と返しながらラビと顔を見合わせた。

「……麺を?」
「焼く……?」

二人で首を捻っていると、ジェリーが砂糖を林檎に振り掛けながら笑い出す。

「どんな想像してるの、二人とも。麺じゃなくて、蕎麦の粉を使うのよ」

ラビがいち早く頷いた。

「へぇ、なるほどな、そういうことか」

もようやく飲み込めて、ほ、と息をつく。

「俺、蕎麦を丸めて焼くんだと思ってた」
「オレもさ」

思えば、も確かに「そば粉」と言っていた気がする。
ジェリーが林檎をオーブンに入れながら、空いた手をぶんぶんと振った。

「違うわよー! んもう、男の子はこれだから!」

可愛いんだから! と言われ、ついラビと共に苦笑した。
ラビが背後を指す。

「持ってくさ。席取ってて」
「別に良いだろ、いま空いてるし」
「いいからいいから」

何だよ、と言いながらも、ラビの言葉の理由をは知っていた。
ため息をついて、しかし気遣いに有り難く甘える。
近場の席を取ると、通路を挟んだ向こう側にドクターの姿が見えた。
にこやかに手を振られ、も何気なく振り返す。
笑顔の中、ほんの一瞬垣間見えた鋭い視線に、あ、と小さく声を上げた。

「(そうか)」

が朝一番でを見つめる訳が、ようやく分かった。









神田の部屋の前には、ひっそり小袋を置いてきた。
一息ついたは、残るボーロをかご一杯に抱えて廊下を進む。
目指す先は、科学班と司令室。
かごの上には、小袋が一つ。
部屋に缶詰めにされているだろうコムイに渡すものだ。
賑やかな科学班をちらりと覗くと、相変わらずの嘆きと呻きと怒号が聞こえる。
はつい、かごの中を見下ろした。
休憩用にしては、些か甘味が足りない気がする。

「……別のものの方が、良かったかな」

それでも作ってしまったから、仕方がない。
きっと健康にはいい筈だと自分を納得させ、足を踏み入れる。

「あれー? ー?」
「うん、だよ。大丈夫? ジョニー」
「うん……聞いてよ、さっきからもう何回計算間違えたか……」

うううう、と啜り泣き始めるジョニーの背を、はそっと擦った。

「疲れてるからよ……甘いもの持ってきたから、ちょっと休んで。ね?」

ジョニーの背をもう一度擦り、他に何人かを労って、やっとリーバーの元に辿り着く。
もう見慣れてしまったが、隈が酷い。

「リーバーさん、お疲れ様。お菓子持ってきたよ」
「ん? ああ、か……待ってくれ、あと少しなんだよ……」

あと少しと言いつつ、傍目にも全く関係の無い言葉を紙に綴り始めるリーバー。
どうしたものかとが眉を下げた時、奥から軽快な靴音が聞こえた。
顔を上げると、姉妹のような親友がお盆を持って笑っている。

「熱心すぎるのも困ったものよね」

はうん、と苦笑を返す。
リナリーが大きく息を吸い込んだ。

「飲み物欲しい人ー! ちゃんと休憩取る人はお菓子付きー!」

途端に方々から手が挙がる。
更に、一人が立ち上がったのをきっかけに、我先にと班員達が押し寄せてきた。
は何とかかごだけを置いて、その場を抜け出した。
喧騒を離れて司令室をノックする。
返事はない。
そっと中を窺うと、コムイが書類に突っ伏して泣いていた。

「コ、コムイさん」

は慌てて駆け寄った。

「今リナリーも来るから! 泣かないでコムイさん」
「ううー、ー」

終わらないよーと鼻水を垂らすコムイを抱き止め、ティッシュと小袋を差し出す。

「お疲れ様。皆ちょっと休んだ方がいいんだわ……」
「うん……うん……」

ずるずると鼻をかむコムイを、書類を見て、は少し俯いた。
お疲れ様、だなんて。
自分が掛けていい言葉では、無いかもしれない。
鼻をかむ音が響く部屋に、兄さーん、とリナリーの声が近付いてきた。

「お疲れ様、コーヒー持ってきたよ」
「リナリー……」

コムイは恭しくカップを受け取り、脇に置いて、とリナリーを同時に抱き込んだ。

「コムイさん?」
「兄さん?」

大きな手が、優しく頭を撫でてくれる。

「ありがとう、二人とも」

――きっと、見透かされてる

兄という存在は誰も彼もが「そう」なのかもしれない。
幸せそうなリナリーと顔を見合わせ、もにっこりと笑った。










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