燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
Another story「礎とその墓碑」
息が、上がる。
激しい呼吸の音が一体どちらの仕草によるものなのか、もう判別も出来なかった。
後ろから自分を抱く、人。
手を握ってくれるその人と、自分と。
限りなくひとつになっているのに、温かな背から伝わる予感に、視界が歪んだ。
「……大丈夫だ、」
ううん、ううん、と首を振る。
耳元で囁く声が、笑った。
否、囁いてなどいない。
彼の精一杯の声が、笑った。
「怖くなんか、ないだろ。……俺が、ついてるよ」
は思わず、口を開く。
「ほ、んとう、に? ぜったい……?」
今声を出せば、嗚咽が混じると、分かってはいたけれど。
もう少しだけ、縋っていたかった。
鈍く光る大鎌の刃に、血が一滴、吸い込まれる。
の手を握ってくれる兄の手に、力が篭る。
「ああ」
絞り出すような強い声。
「傍にいる、必ず」
促されている。
自分にも、強さを。
いつか訪れる「今日」のために、全て準備されていた。
は知っている。
もう、逃げられない。
応えなければならない。
大丈夫なのだと、見せなければならない。
だから、彼の手の中で、イノセンスの柄を握り締めた。
「お前なら、出来るよ……俺の、妹、なんだから」
耳元の吐息に、涙が溢れる。
「」
「……お兄、ちゃん……」
何度も、数えきれないくらい、名前を呼ばれた。
でも、きっとこれほど耳に残る瞬間は、無いだろう。
今、この時を永遠に刻みつけて。
は下を向いて、大きく息を吐いた。
流れる涙をそのままに、思いきり空気を吸い込み、前を向いて頷いた。
の手が、ふわりと離れる。
「いっておいで」
降りしきる雪が、全て、跡形もなく消え去った。
「――うん」
背中の温もりはまだ、残っている。
例えこの先、雪が降ったとしても、彼の温もりが、残らず全て融かしてくれる。
一歩踏み出せば、イノセンスが手の中で熱く応えた。
羽のように体が軽い。
「(傍に、いてくれるから)」
だからは、振り返らなかった。
レベル4の残骸に、目を止めている余裕は無かった。
上がりきった呼吸もそのままに、教団中を駆けた。
初めて使いこなせた「神の命令」を、握り締めたまま。
駆けた。
見て欲しかった。
この大鎌と共に在るところを。
震えずに立っている、この姿を。
長い時間を、掛けてしまったけれど。
それでも、やっと。
階段を駆け上がり、鎌に寄り掛かり、辺りを見回して、息を止めた。
――本当は、それがもう叶わないと、知っていた
壊れた廊下の先に、クロスが居る。
鎌を手放し、足を縺れさせながら駆け寄れば、師が顔を上げた。
「……」
その腕に抱かれた黄金に、苦しみの色はなくて。
見たこともない穏やかな寝顔は、血や埃に汚れているのに、とても綺麗だった。
とても綺麗に、笑っていた。
はぺたんと座り込んだ。
「ちゃんと、喋れたか」
「……うん」
問いに答えると、クロスは何度か頷いて笑った。
「そうか」
肩を抱き寄せられる。
ぐっと三人の距離が近付いた。
生まれてからずっと傍にいてくれたその人の体へ、手を伸ばした。
他ならぬが、触れているのに。
もう何も応えてくれない。
クロスがの肩を抱いているのに、師への小言がひとつも無い。
「良かったな」
それが、兄妹のどちらへ向けられた言葉なのか、分からなかったけれど。
は、の代わりに頷いた。
まだ温もりの残る彼の手に、涙が落ちる。
その上から、兄の手を強く握り締めた。
ほんの数日、悲しみに暮れるより先に、その痛みから逃れる道が探された。
そしてそのどれもが、実行されなかった
赤髪の元帥が、弟子の眠りを護り抜いたからだ。
今、棺は大聖堂の中央に置かれている。
人目を避けて訪れた筈なのに、そこには既に先客がいた。
棺に伏せていた顔が、上げられる。
流れる黄金。
彼女は此方を見上げて、笑おうとしたように見えた。
「来てくれたの、神田くん」
答えずに近付く。
が立ち上がり、身を引いた。
神田は棺の前に立った。
驚くほど穏やかな微笑を口許に湛えた亡骸の、本来の姿を、神田は知らない。
恐らく、も知らないのだろう。
聞くところによると、いの一番に発見した彼らの師が、開かれていた瞼を下ろしたらしい。
踏み出した妹の姿を目に焼き付けて、もしくは、しかと見届けて。
言葉通り、自らを礎にしてしまった彼は、さぞや満足だったろう。
神田はつい、溜め息混じりに笑ってしまった。
「……しょうがねぇ奴」
視界の端で、が首を傾げる。
それには構わず、神田は振り返った。
「邪魔したな」
「ううん。ありがとう」
あの日から、は見違えるほどに、背筋を伸ばして立つようになった。
あの日も、驚くほど機敏な、そう、まるでその兄のような動きで鎌を振るっていた。
今もそうだ。
腫れた瞼で、それでも穏やかに微笑み、しゃんと佇んでいる。
「もう、日付が変わったから」
注視してしまったからか、が肩を竦めて笑った。
「泣くのは昨日まで、って決めたの」
そうか、と返せば、うん、と頷いて、彼女は十字架を見上げた。
神への供物の、その傍らで。
彼女は此方に背を向けた。
「私、赦さないわ」
常と変わらぬ口調で、が呟く。
「伯爵も、ノアも、アクマも。中央庁も、教団の皆も、私のことも、この世界も。神様だって」
兄のような存在感は無い。
けれど、確かに。
神でも何でもない、一人の人間として。
怒りを全身から立ち上らせながら、彼女は十字架に対峙した。
「赦さないわ、神田くん」
名を呼ばれただけなのに、まさか、この少女に気圧されるなんて。
ふわりふわりとした、声の調子は変わらないのに。
含まれる怒りが、神田の声を押し込める。
が不意に俯いた。
焼けた鉄のような灼熱が、かき消える。
「それでも、……それでもお兄ちゃんは、赦すって言うかしら」
神田は知っていることを素直に返した。
「それを人に押し付けたりはしねぇだろ」
が振り返る。
炎の灯りに照らされて、彼女は微笑んだ。
「……うん」
神の寵児を贄にして立つ少女の誓いが、狂気のようにも思えたけれど。
神田には、それを判別することは出来なかった。
この狂った「聖戦」で、何がまともなことかなんて、誰にも分からなかったのだ。
棺に眠る、彼でさえ。
狂気を振り翳して矢面に立ち、狂気を纏わせながら捧げられた、彼にさえ。
分からなかった。
ただ、彼女の頬に伝う涙だけは、紛れもない真実だと思えた。
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