燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









Another story「風花」









生まれた時から絶えず耳にしていた、あの声が。
心から幸せそうに、笑った。

じゃなくて、良かった」

柔らかな光が差し込む部屋に、ふわりと漂う言葉。

「……俺で……よかった……」

光の中で、声は一度だけ震え、やがて重力に従い、落ちた。









幻の雪が、降り積もる。

「――ッ!!」

は息を呑んだ。
意図せず体が硬直し、そして一気に脱力してしまう。
シャラッ
開いた手から落ちた鎌が、ブレスレットへ形を変えた。

「……っあ、……はぁっ、ぁ……」
、しっかりして!」

聞き慣れた声。
優しい手が、背を摩る。

「……っ、リナ、リ……」
「ええ、此処に居るわ」

大丈夫。
大丈夫だよ、
語りかける言葉は、幼い頃から兄が二人に掛け続けたそれと同じ。
の教えをものにしていくのは、何時だって彼女だった。

「もう、いっ……かい……」

ガタガタとみっともなく震える手を、ブレスレットへ延ばす。

「もうやめよう。もういいよ、

リナリーがを覗き込んだ。

「二回も発動出来たじゃない。今日は終わりにしよう?」

は首を横へ振った。

「駄目……二回じゃ、駄目、なの」
「上出来よ。そんな、いきなり同調率が上がる訳じゃないんだから」
「それでもっ!」

嗚呼、嫌だ。
溢れる涙を止められない。

「二回じゃ、駄目なの……!」

ブレスレットを引ったくるように拾い、ぎゅっと握り締める。

「イノセンス……っ」

雪で埋め尽くされる視界。
鼓動が速まる。
空気が薄い。
飛び交う音が、意識を狂わせる。

!」

リナリーの声が、聞こえた。
ブレスレットから、無理矢理に引き離される。

「ゆっくりでいいんだよ。も、無理しなくていいって言ってるんだから」

――それが、駄目なんだもの

「……ふ、ぇ、……リナ、リ……っ」
「大丈夫。頑張ったね、また明日にしよう? ねっ」

優しい彼女の言葉が痛い。



兄はいつも、無理をするなと微笑った。
優しく頭を撫でて、自分を守ってくれた。
思い出すのは、確かに怖かったから。
何時だって彼に、甘えてしまった。
それで良いのだと思っていた。



彼がどれだけの無理を押しているか、知っていたのに。



その殆どが、自分のせいなのだ。
出会った人の為に、家族の為に、何より妹の為にと。
誰にも甘えず、誰かを守るために。
それで良いのだと、いつでも優しく微笑って。



「リナ……?」

優しい声が、修練場に広がる。
リナリーが顔を上げたのが分かった。
は、顔を上げられなかった。

! 起きても平気なの?」
「ああ、大丈夫。二人を捜してたんだ、一緒に居たんだね」

良かった、と笑う声。

「コムイが呼んでるよ、リナリー。急ぎで」
「兄さんが? 任務かな」
「いや、違うみたいだけど」

リナリーの手が、頭を撫でた。

「ちょっと行ってくるね」
「……っ、うん……」

やっとのことで顔を上げれば、眩しいほどの彼女の笑顔に当てられる。
大丈夫、ともう一度囁き、リナリーはの元を離れた。
誰が見ても分かるほどに互いを想い合う二人が、視線を交わす。
リナリーはそのまま修練場を出ていき、代わりにがこちらへ歩いて来た。

「珍しいな、此処に居るなんて」
「う……っ、うん……」

早く泣き止もう。
そう思って必死に目を擦る。
いつの間にかやってきた大きな空気が、優しく手に触れた。
見上げれば、微笑。

「擦らない。腫れるよ」
「……うん……」

どうしてこの人は、こんなに綺麗に笑うのだろう。
抱き寄せられるまま、彼の肩に顔を埋める。

「イノセンス、訓練してたのか?」

背を撫でてくれる、手の温もりが。
次々に涙を溢れさせる。
喉が塞いで、は首肯で応えた。

「そっか……、ッ」

不意に、鋭い息の音。
背中の手が動きを止め、代わりにくぐもった咳が聞こえた。
ぞくり、と悪寒が背筋を駆ける。

「お兄ちゃ」
「だいじょうぶ」

ひゅ、掠れた音の後に、返って来たのは変わらない微笑み。

「大丈夫」

ほんの少し俯いた彼の、疲れたような吐息が耳を擽る。

「訓練、どうだった?」

尋ねられて思い出す、苦しい気持ち。
は思わずの背にしがみついた。

「に、かい……二回、しか……発動、出来なくて……っ」
「二回か、頑張ったね」

いつもなら、無理をするなと繰り返す彼が、今日はただ頷いた。

、……俺……さ、」

自分ならともかく、が言い澱むことは少ない。
顔を見たいのに、を抱く腕は、それを許してくれない。

「しばらく、本部の守りにつくんだ」
「本部、の?」
「うん」

短い苦笑。

「外の任務も、行くけどね。だけど、今まで通りには、出来ないから」

が俯き、をぎゅ、と強く抱いた。
押し出されるように上向いた顔。
は、修練場の壁を見つめた。

「俺への任務が、いくつかお前に、回ってくると思う」
「……う、ん……」

震えた声を、どうとったのだろう。
ごめん、とが呟いた。

「ごめんな、

彼が謝る必要は、無いのだ。
その任務は本来、自分が受けるべきものなのだから。
肩代わりしてくれていたものが、返ってきただけのことなのだ。

「……ううん……」

不甲斐ない。
何時だって、何時だって。
彼の負担にしかなれない自分が。
彼の手を煩わせる自分が。

「(……ごめんなさい……)」

――赦せない









もう何年も、胸の痛みが止まらない。
楽しい時も、嬉しい時も、悲しい時も、夢を見ている間にも。
今だって。
締め付けられるような、針で突き刺されるような、ナイフで刔り出されるような。
吐き気がする程に息苦しい。
痛みが、消えない。

には、黙っておこうか?」

気遣うコムイの言葉に、小さく笑った。

「……別に、いいよ」

脳裏に浮かぶのは、彼女の濡れた瞳。
自分と良く似た、漆黒。

「もうきっと、気付いてるから」

コムイの顔に驚きが広がる。
知らず体に力を入れた彼を尻目に、はベッドに身を任せた。
細く長く、息を吐く。
首を起こすのが辛い。
出来ることなら、瞼も下ろしてしまいたい。

「気付いてるって……、」
「ずっと、俺を見て、育ってきたんだ」

けれど、瞬きにほんの少しの誇らしさを乗せて、はコムイを横目に見た。

「……あの子はそんなに、鈍くない」

だって、何度も、聞かれた。

――お兄ちゃん、ごめんね――
――具合、良くないんでしょう?――

大丈夫。
お前のせいじゃない。
そんな言葉で騙せる程、ましてやそれを流してしまえる程、薄情な子ではない。
けれどはいつだって、その先を追及しないでいてくれる。
妹の優しさに甘えていたのは、自分。
不意にコムイが、布団の中の手を握った。


「――はは、」

熱くなった目頭。
気付かれたくなくて、笑みを零す。

「……生きてる、温度だ……」

冷え切った自分の体とは、違う。
大切なものを、いくらでも守っていける温もり。
羨ましいなんて、妬ましいなんて、

「君だって、ちゃんと生きてる」

言う資格は、無いのだ。

「……っ、」

ただ一人の妹を、を守りたくて、だから守れない自分を認めたくなかった。
何でもないふりをして、微笑ってみせた。
いつの間にか祀り上げられ、気付けば、後には引けなくなっていた。

「君の手は、まだ温かいよ」

コムイの声が震えている。

――ああ、笑わなきゃ

弱音吐いてごめん。
俺は、大丈夫。
だからそんなに、心配そうな顔をしないで。
伝えたいのに、上手く、笑えない。
目の端から、涙が零れた。

「……ほん、と……?」

強く頷かれる。
胸が、張り裂けそうに痛い。
漏れる鳴咽を隠す術を、何処かに見失った。

「うん。ほら、自分でも分かるでしょう?」

持ち上げられた手が自分の頬に触れる。

「ね?」

その手が温かいとは、とても思えなくて。
けれど優しい笑顔を向けてくれる人が居て。
それが、辛くて。
流れる涙もそのままに、目を瞑り、息を止めてただ、頷いた。

「大丈夫。大丈夫だよ、

――駄目だよ。もう、駄目だ

決して口に出せない言葉だけ、胸のうちにゆっくりと、雪のように降り積もる。

「諦めないで」

――ごめんなさい



再び不安と心配を滲ませた声へ、息が上がるほど力を込めて、笑ってみせた。

「……うん……」









辛くなんか、ない。
降り積もる雪の向こうで、君が生きていてくれれば、それでいい。










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