燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









Another story「黄金色の兄妹」









「神田くんの馬鹿っ」



パシッ



涙声。
続いて廊下から響いた音に、科学班一同は背を凍らせた。
リナリーも例外では無く、しかし誰よりも冷静に、そろそろと廊下を窺い見る。
走り去ると、立ち尽くす神田。
任務帰りの団服は破れていて、それが彼女の怒りの原因だろうということは、容易に想像出来た。

――神田くん、怪我……っ――
――うるせぇな、放っときゃ治るんだよ――

だいたいこんな感じだ。

「(神田の馬鹿)」

自分だって、が怪我をしたら心配するくせに。

に言ってくるわ」

振り返って小声でリーバーに言うと、科学班全員の瞳が向けられた。
ここから先の平穏は、自分の手に委ねられている。
泣いているが言いに行くよりも、頬に紅葉を作った神田がふらふら歩き回るよりも。
何よりも先に、彼に事の次第を伝えなければ。
の心中を察すれば神田はどうなっても良い。
けれど本部壊滅だけは避けてもらいたい。
数々の期待を受けて、リナリーは科学班を後にした。









神田が悪いのだ。
それなのに。

「(ずりーさ、ユウ)」

彼女はまだ彼を気にかける。
ラビは心の中で溜め息をついた。
堅い友情を誓い合っている東洋の美少女も、自分の片思いだと思い込んでいる黒髪の剣士も。
妹と恋人を世界と考える黄金の神様も居ない今なら。
彼らなら壁を透かす目を持っていそうだが。
今なら少しくらい自分が日の目を見ても、罰は当たらないだろう。
ラビは啜り泣くの肩を抱いた。

「泣くなよ、ユウならすぐ元気になるさ」
「……駄目だもの……私の前で、怪我してて欲しくない……」
「そうさな」

ぐりぐりと頭を撫でると、は涙を拭きながら頷いた。

「神田くん……ちゃんと医務室行ったかなぁ」

濡れた漆黒の瞳。
長い睫毛から落ちる影が憂いを引き立てる。

「(……ずりーさ、ユウ)」

あの無愛想のどこが良かったというのだろう。
否、彼は本当は優しいのだ。
それは知っているのだが、こうも露骨にされると。

「ちょっと悔しいさ」
「え?」
「何でもないさー」

軽く抱きしめると、彼女はむー、と唸りながら腕をすり抜けた。

「あれっ」
「それは怒られるよ、ラビ」
「ちぇー、やっぱし?」

この身のこなしは、対自分用に施した兄の教育の賜物だ。
ラビは苦笑いをして頬を掻く。
唐突にが顔色を変えた。

「……あ、……」
「ん?」
「二人が会っちゃったらどうしよう……」

が怪我をした神田に会ったら。
まずは怪我の心配をするだろう。
神田が反論し、少し口論を繰り広げた揚句。
彼のことだ。
その姿で妹に会ったか否かを、泣かせていないかどうかを問うに違いない。
馬鹿正直な神田へ。

「……やば」









「つまり?」
「な、泣かせたっていうか、そのー、怪我見て泣いちゃったというか……?」

身を起こした
そのベッドの端に座り、リナリーは内心の緊張を必死に押し隠した。
リナリーだって十分大切にされている自信がある。
間違いなく、彼の「一番」ではあるだろう。
けれどの存在は、そんな言葉では足りないのだ。
ただ一人の肉親、彼の「世界」。
それはまるで自分と兄の関係のようで。
だからこそ、普段は実に優しい彼の空気が、が絡むと急に刺々しくなるのは理解出来る。

は今?」
「ごめんなさい、分からないわ」
「そっか」

が、笑った。
爽やかな笑顔。
それなのにぞくっと悪寒が走る。

「教えてくれてありがとう」

頬にキスを落とされ、リナリーはようやく我に返った。
部屋のドアが開き、パタンと音を立てる。

「(……ごめん、みんな……)」

心の中で呟いてから、リナリーはの後を追った。









神田に包帯を巻こうとしていた医療班が、怖れ慄いて身を引いた。
リナリーがハラハラした面持ちで二人を交互に見ている。
目の前の存在に直視されている神田は、彼から目が離せなかった。
離したいのだが、その視線に捕らえられた体は、動かない。
動けない。

「ユウ、その傷は何?」
「……すぐ治るっつってんだろ」
「それで命縮めたら意味無いだろ」
「テメェにだけは言われたくねーよ」

は神田を射止めながら、リナリーが横から差し出した椅子に腰を下ろした。
俯いて暫く黙り込んだを、リナリーが窺った。

?」
「大丈夫……お前さっさと謝ってこいよ」

やはり知っていたか。
前半と後半の声がまるで違う。
加えて命令されたというのが不愉快で、やっと神田は彼から顔を逸らした。

「何で俺が」
「あのさ」

は顔を上げない。

「妹の恋路を邪魔するほど、不粋な兄貴にはなりたく無いんだよね」
「恋路?」

ラビの話が何故ここで?
そう思い聞き返す神田へ送られた、大きな溜め息。

「神田……」

リナリーまでもが額に手を当てている。

「何だよ」
「……もういい。お前煩い」

にしては珍しく、随分とぞんざいな物言いだ。

「ちっ、何なんだよ」
「煩い。今なら許すから早く行け」

煩いはこっちの台詞だ。
心の中だけでそう言って、訳が分からないながらも立ち上がった。
結局自分はこの兄妹に甘い。

「行けばいいんだろ、行けば」

その時。

「ユウまだ生きてっか!?」
「お兄ちゃんに会わないで!」










突然部屋に乱入してきたとラビ。
兄妹の視線がバッチリ出会う。

「え、な、お……お兄、ちゃん……?」
「おはよう、

口走っていた言葉を思い出したのか、しどろもどろになる
対照的に、の笑みは限りなく優しい。
何を言っても怒られはしないということに、彼女はそろそろ気付いた方がいいだろう。
リナリーはから目を離し、ラビを見た。
何故彼が此処に居るのか。

「おは……よ……?」
「怒ってないよ、入っておいで」
「う、うん」

は妹に微笑みかけながら、彼女の死角で神田に鋭い目を向ける。
リナリーも、ラビを一時放棄して神田を見つめた。
が顔を赤くして、神田との真ん中まで近づいた。

「あの……」

体を神田に向け、しかし俯いて言い澱む。
彼の前では緊張し過ぎていつもこうだ。

「さ、さっきはごめんなさいっ!」

彼女にしては珍しい思い切りに、リナリーは思わずぐっと拳を握った。
神田がそっぽを向こうものなら、間髪入れずに繰り出すつもりだ。

「ちっ……お前が何かしたかよ」

流石にこれ以上は望めないだろう。
そっとを窺うと、彼もリナリーの視線に気付いたようで、二人は目を合わせて苦笑した。
全く、いつまでたってももどかしい。
ほっとした表情のが、に向き直る。

「お兄ちゃん、今日は寝てるって朝……」
「ああ、もう一つ用事済ませたら戻るよ」

リナリーは口を挟んだ。

「私が教えたの。ごめんね、

が目を瞬かせる。

「もしかして……科学班に聞こえてた?」
「当たり前でしょ? 目と鼻の先じゃない」

きゃー、と頬を押さえる
人形のような貌がいきいきと色づいて、同性の自分も見惚れるほど可愛らしい。
は実兄だけあって平然と微笑んでいるが、神田とラビは身動きが取れないでいる。
ふとリナリーは思い出した。

「ねぇ、何でラビと一緒だったの?」

げ、とラビが呟き、は両手で口を覆った。
神田が横目でを見ている。
変わらないの微笑みは、逆に怖い。

「さて……残りの用事を片付けようか」
「ええええっと、?」

ラビは身を引く。
がひじ掛けを掴む。
慌てたが、ラビを振り返りながらを押さえた。

「お兄ちゃん、あたしがラビの所に」

そのを黙らせるのは、爽やかな、そしてとても愉しそうな、最上の笑顔。

「大丈夫、ちょっと話をするだけだから」
「……はい……」










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