燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









9th.Anniversary「願望の亡骸」









いやに空腹を覚えた、夜。
クロウリーは食堂の前で一人、腹と頭を抱える。
両方一度に抱えられたら良いのだけれど、人体の構造上それは難しい。
結果的に、腕組みをしてうーんと顔を顰めることになった。

「(……何か、食べたい……)」

腹が減った。
もうとにかく腹が減った。
理由は明白だ、デザートを食べていない。
熱い視線をこちらに向けていたアレンに、夕食のデザートのアップルパイをあげてしまったのだ。
彼は頑なに固辞したが、涎を垂らさんばかりの顔でパイを見つめていたので、見過ごせなかった。
今日のアレンはいつも以上に張り切ってバイトと鍛練にも臨んでいたので、腹が減るのも当然である。
パイを頬張ったアレンの幸せそうな顔を見たら、クロウリーは満足してしまった。
――のは、その時だけで、今になって腹の虫が騒ぎ出した。
格好をつけておいて、逆に格好悪い。
本当は、何でもない顔でやり過ごしたい。
けれど。

「……仕方ないである……」

これでは眠れない。
懊悩の末、絞り出すように呟いた。
ジェリーに頼んで、一口でも何か、何か食べさせてもらおう。
クロウリーは気まずい思いでカウンターに顔を出した。

「ジェリー料理長、その……」
「あらん? クロウリー?」
「あの、その、いや、大変恥ずかしいのであるが……小腹が空いてしまって……」
「んまっ! 恥ずかしがらなくっていいのよう、もうっ。何か摘まめるもの出してあ、げ、る、か、ら!」

料理長は棚を開けて、素早くドーナツを出してくれた。
あれは恐らくアレンのおやつ用だ。

「(すまないであるぅぅぅ……!)」

余計に申し訳なくなりながら、ひとつだけ貰う。
その時、ぐっとジェリーに腕を引かれた。

「ねえ、ちょっと頼まれてもらえる?」

――曰く、今日一度も顔を見せていない人がいるのだという。
だ。
言われてみれば、クロウリーも見た覚えがない。
今日は談話室と修練場、科学班にも立ち寄ったのだが、そのどこでも目にしなかった。
夕食時には、アップルパイの匂いまでしていたのに。
けれどそれは近頃、否、クロウリーが教団に厄介になってからは珍しくもないことだ。
けれどジェリーは首を振った。

「病室からは食事の注文が来てないのよ。てことは、今日は『捕まってない』ってことじゃない?」

それは、気になる。
結局ドーナツをもう一つ貰ってしまってから、クロウリーは宿舎までやって来た。
拳を握って、軽く二度、三度、扉を叩く。

。クロウリーである」

しん、と廊下は静まり返っている。
此処にいなければ、聖堂だろうか。
ぼんやりそんなことを考えながら、もう一度扉を叩く。

?」

いないなら、鍵がかかっているだろう。
いるのなら、食事を忘れて何をしているのだろう。
読書に夢中になっているのかもしれない。
体を動かすのが好きそうで、それでいて彼はとても読書家なのだ。
旅の途中で駆使していた多言語も、本や辞書からの知識だと聞いた。
落ち着いて字を書く習慣などこの教団には無いだろうに、字も綺麗だった。
さらさらと美しい文字を綴るので、クロウリーは思わず仰天して彼を褒めたほどだ。
で、クロウリーが書いた文字を見てそれはもうキラキラと目を輝かせていた。
あの時は褒められすぎて微笑まれすぎて、照れるやら誇らしいやらで汗をかいた。
思い出に浸りつつ、ドアノブに手をかける。
扉は、あっさりと開いた。
いるのだ、恐らく。

「失礼するである」

クロウリーはぐっと扉を押し開けた。
カーテンのかかっていない部屋は、窓からの月明かりでぼう、と照らされている。
簡素な部屋だ。
大きな洋箪笥とベッド脇のサイドテーブル以外、何もない。
青みがかった光を受けるベッドに最初に目がいかなかったのは、「静か」だったからだ。

「……?」

ベッドの上には、布団もかけず、倒れ込んだように横たわる金色があった。
月明かりに透ける蒼白な横顔。
長い睫毛が目に影を落とし、落ち窪んでいるようにさえ見える。
僅かに開いた唇は、紫がかっていた。
クロウリーは足を早める。
いつもの存在感など、欠片もない。
ただただ空虚で、そう、空気はあまりに静かだった。
彼がいるのに、空気が「静か」なのだ。
びくり、クロウリーは、駆け寄ろうとする足を思わず止めた。
だって。

――息を、しているのか?

頭に浮かんだ言葉にぞっとする。

「(触れたら、判ってしまう)」

今、この部屋にはクロウリーと、「神」の屍しかいない。
胸の中で喧しく騒ぐ鼓動。
呼吸が干上がる。
喘ぐ息で、掠れた声で呼び掛けても、寝息も吐息も身動ぎさえ返ってこないのだ。
足が震える。
びくり、びくり、筋肉が震える。
行こうか、退こうか、否、行かなければ、けれどそれは。
待ってくれ。
待ってくれ、まさか。
本当に「神様」が――?

「(いや、……その呼び方は『しない』と決めたのだから)」

音を立てる歯をぐっと噛み締めて、ごくりと喉を鳴らして唾を飲む。

、」

足を縺れさせながら、クロウリーは駆け寄った。

っ! しっかりするである」

そうだ。
「しない」と、決めたのだから。
彼を神と見るのはあの時だけ、あの場だけ、と誓ったのだから。
口許に手を近付ける。
そっと手首を持ち上げて脈をとる。
誰に助けを求めたらいいかも分からず、取り敢えず無線で室長に判断を仰いだ。
医療班へ連絡をつけてもらい、ほっと救われた気持ちになっていると、掴んでいた手首の筋がぴくりと動いた。

「……、ぅ……」

指先に触れると、指であるとか甲の皮であるとかの区別もなしに、握られる。
まるで。

「(――縋り付くようだ)」

そう、ふと思ってしまって。
クロウリーは堪らず彼の手を握り直す。
黄金の睫毛が震えて、うっすらと漆黒が覗いた。

、気が付いたであるか」

床に膝までついて視線の高さを合わせる。
じ、と一点を見つめていたが、不意に息を吸い込み、目を瞠った。
体に力を入れた彼が起き上がろうとしたことは明白で、クロウリーはその肩を押さえ込む。
以前はそんなことをする勇気もなかったし、振り払われてしまった。
こんなところで鍛えた甲斐があるとは。
動きを遮られたは、珍しく、不服そうに眉を顰めた。
口の中で彼は呟く。

――クロウリー?

クロウリーは頷いて、押さえ込んだ肩をそのままそっと包んだ。

「ジェリー料理長に言われて来たである。今日はアップルパイもあったのに、キミがいなかったから」

漆黒が僅かに彷徨う。
それからすぐに、が顔を顰めた。
角度が変わったからか、顔からは更に血の気が引いて見える。
クロウリーは手首を動かさぬまま、とん、とん、と指先で肩を叩いた。

「寝てた、だけだよ」

神経を耳に集めてようやく聞こえるような囁き声で彼が言うので、クロウリーはただただ頷く。

「分かっているである。……さあ、目を瞑って、力を抜いているといい」
「……いやだ」

静かに、優しく言ったのに、途端には目を潤ませた。

「目、開けたら……きっと、クロウリーは、死んでるんだ……」

予想外の不吉な言葉に、つい目を瞠る。そんな馬鹿な。
口にしそうになった言葉を思わず飲み込んだ。
だって、彼は間違いなく「そう」信じて、言っているのだ。
涙ぐんでまで。

「(怖い夢でも、見たのだろうか)」

信じるものは、やはり目に見えたら安心する。
触れることができたら、尚更だ。
だから彼は求められたのだ、願いのカタチを可視化するために。
では、移ろい不確かな人間を心の支えにする彼は。
苦しいときに独りになってしまったら、何を拠り所に立てばいいのだ。
誰もいない部屋で、誰の姿も見えない場所で。
見えもしない触れられもしない、冷徹で残酷な神様の存在だけを思いながら。
ひとりぼっちで。
ひとりぼっちは、寂しい。

「……心細かったであろう、

よく頑張った。
そう呟いて、クロウリーは笑う。
肩に置いていた手を下ろして、両手で彼の指先を握った。

「目を開けるまで、ずっとここに、こうしているである」
「……ほんとう?」
「勿論である。キミが起きるまで身を守ることくらい、私も、出来るようになったのだから」

その指先は冷たく、震えていたけれど。
きっと自分の体温が伝わるだろうと、信じて。

「だから、肩の力を抜いていいである」

アレンのように強く、優しい自分でありたい。
彼の笑顔は元気が出る、勇気が出る。
だから、クロウリーだって笑ってやるのだ。
が、震えて、窺うようにしながらふ、と目を閉じた。
医療班の足音は、まだ聞こえない。
扉の外は静かなものだ。

「(ただ飾られるだけの『神』なら、もっと楽だったのだろうか)」

或いは、もっと鈍感であれば、楽だったのだろうか。
クロウリーは窓を見上げる。
今日の月は明るく、完全な暗闇にはならない。
その光が少しでも、目蓋を透かして届いているといい。

「(キミの願いも、いつかカタチになりますように)」









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