燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
7th.Anniversary「いつか実を結ぶと信じて」
女の良し悪しに、肌の色は関係ない。
肌理が細かく、水を弾くように張りがあって、吸い付くような潤いを湛えていてくれさえすれば。
この町の宿屋の女将は、褐色の肌を持つなかなかグラマーな美女だった。
褐色というとどことなく敵勢力を思い浮かべてしまうのは、職業病のようなものだ。
体躯に反して控えめで品のある微笑が美しい。
程よくクロスに熱情を抱いているようだから、恐らく今晩は褥へ雪崩れ込むことになるのだろう。
一人に入れあげることのないクロスにとって、女と関係を持つのは予感と、成り行きが殆どだ。
けれど近頃は夜の予定にある程度の見通しを立てるようになった自分がいる。
原因は、分かっている。
「お困りのことがあれば、何なりと私に」
そう言う女将の頬に軽いキスをして、クロスは宿の出口へ向かった。
原因は、分かっている。
クロスが隣にいないと眠りもしない、あの黄金色だ。
隣にいても眠らない日があるのだから、自分の存在は彼の睡眠とは無関係なのではなかろうか。
そう思うことは簡単だが、生憎とそれは憚られる。
あれは、仮に死にかけても実際に鼓動を止めるまでそれと悟らせない、そんな面倒な子供なのだ。
「(いやまあ、普通のガキよりは、よっぽど手は掛からないんだろうが)」
近くのベンチに、件の黄金色を待たせている。
確か、近くで数人の子供達が遊んでいた筈だ。
そう思って宿の扉を開いたクロスは思わず息を飲んだ。
通り一帯に走る緊張。
張り詰めた空気、その出所が判らぬクロスではない。
はっと視線を移すと、目当ての場所で子供達が立ち尽くしている。
その中でも年長で、体格の良い少年が尻餅をついて空を仰いでいた。
否、少年は固まっているのだ。
コートのフードが外れていることも構わずにベンチの前で仁王立ちする、黄金色を見上げて。
「(珍しいこともあるもんだ)」
凍りつく周囲の住人、そして当事者の子供達。
その中でクロスは一人、煙草を挟んだ指先で口許を隠して笑った。
あの敵意や悪意など知りもしないような顔をした黄金色が、明らかに憤っている。
さて、尻餅小僧は一体何をやらかしたのやら。
「」
名を呼べば、が顔色を変えた。
恐る恐る此方を見る漆黒に間違いなく映るよう、顎で宿屋を示す。
が一度少年に視線を戻し、フードを被った。
軽い足音で逃げるように駆け出したが、あっという間にクロスの脇に飛び込んでくる。
閉めたばかりの扉を開け、彼を引き入れた時、外からは子供達がわっと泣き出すのが聞こえた。
傍らでは黄金が頑なに俯き、フードを握り締めて立っている。
「」
びくりと少年が肩を震わせた。
吐くつもりもなかったが、自然と落ちてきた溜め息を一つ。
クロスは膝をついて、フードの中を見上げた。
下唇を引き込んで、突き出た上唇。
力が込もって震える大きな瞳は、何がなんでもクロスと見つめ合う気が無いらしい。
クロスはフードの中に手を差し入れて、柔らかな頬をぶにゅりと潰すように片手で掴んだ。
嘴のように飛び出た唇が、困惑でぴくぴくと動いている。
瞠られた漆黒と相俟って、どことなく滑稽で、間抜けだ。
思わず噴き出すと、弟子は不満げにうーっと唸った。
クロスは頬から手を離し、もう一度を見上げる。
「何してたんだ」
「何も、してない」
「じゃあ何かされたのか」
が少し考えて、ふるりと首を振った。
「……されてない」
「てこたぁ、あれか、お前が一人であいつら苛めてたってのか」
それはそれで、クロスが把握していなかった彼の凶暴性が露呈したということになる。
あまり誉められたことではないが、出会って数年かけて初めて知る性質というのもまた興味深い。
けれどは、それにも首を振った。
「だって」
息を鋭く引き入れて、しゃくり上げるように体を震わせる。
それでも、涙はやはり、零れないのだけれど。
「だって、師匠のこと……悪魔って言った」
意を決して彼が口にした言葉だったが、クロスは呆気に取られて、数回、瞬きを繰り返した。
「赤い髪の毛は、悪魔の印、なんだって。でも……でも、おじさんは変だけど、悪魔じゃないもん」
「(いや、変って何だオイ)」
「そう言ったのに、全然、分かってくれないから」
「(言ったのかよ)」
所々に突っ込みたい点はある。
しかし弟子はクロスのげんなりした表情にも気付かないくらい、興奮して言い募っている。
普段はあれほど、人の様子に聡い子供であるにも関わらず。
「だから、つい……」
「つい、手が出たのか」
ようやく口を挟めたクロスが問い掛けるとが恥じ入るように頷いた。
「僕が、そんなこと……しちゃ、いけなかったのに」
相手が怪我をしている様子はなかった。
恐らく、単に突き飛ばしただけなのだろう。
尻餅をついていた少年とこの黄金には明らかな体格差があったが、片方は曲がりなりにもクロスの弟子だ。
力の使い方が普通の子供とは違っていたから、相手は踏ん張りきれずに倒れてしまった、そういうことだ。
それにしても。
それこそがあの村にいた時のような普通の子供だったなら、此処は叱る場面なのかもしれないが。
滅多に見せない「怒り」という感情を表すことが出来たということも。
自分ではなくクロスのことを悪く言われたから、というその理由も。
「あの子に、謝らなきゃ」
「何て言って謝るんだ」
「僕なんかが……怒って、ごめんなさいって」
呟いた彼の頭に手を乗せて、クロスは立ち上がった。
フードを払って黄金色をぐしゃぐしゃとかき混ぜるように撫で回す。
慌てたように頭に手を遣り、クロスを見上げる。
その漆黒に、ニヤリと笑ってやった。
「その必要はねェよ」
「だって、」
「まずはあのクソガキが、オレに謝罪をするべきだ」
が漆黒を瞠る。
「――が、お前の師匠は出来た大人だから、ガキの戯れ言なんかにいちいち目くじらを立てない」
ぽかんとしていたは意味を正確に捉えたようで、眉を下げて気の抜けた笑みの形を作った。
「これ以上無い、良い師匠だろう? 馬鹿弟子よ」
「それは、どうかなぁ」
生意気にもそう答えたの細い肩に、クロスはそっと手を置く。
「いいか。お前が許せないと思うことがあったら、ちゃんと怒っていいんだ」
怯えた漆黒の、その恐怖を拭い去る方法は、クロスには分からない。
だからただ、何度も重ねて伝えることしか、今は出来ないけれど。
「それは、オレもお前も、誰でもやっていいことだ」
せめてその内の一回分でも、心に引っ掛かって残ってくれれば、それで構わないと。
「でも、僕、」
「オレが良いって言ってんだ。……良いんだ、」
言い聞かせるように、刷り込むように、クロスは繰り返し彼に囁いた。
「……うん」
彼が、全て捩じ伏せて頷くのだと、知っていながら。
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