燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









6th.Anniversary「純潔に染まる」









「神の寵児」。
そう予言された新人の話を聞いたのは、先の任務の帰還報告をしたときだった。
なんでも、年の頃は自分の弟弟子と同じ。
そして、あのクロス・マリアンの弟子だという。
実力はあれど、滅多に本部に寄りつかない傍若無人なあの男の弟子とは。
一体どんなひねくれ者だろうかと一瞬だけ思ったが、続く皆の言葉はどれも好意的だった。

「素直な子だよ」
「いっつも笑顔でねぇ、元気が出るんだ」
「ちっちゃいのに、よく食べてくれるのよ! もう嬉しくって!」
「とてもマリアン元帥の弟子とは思えないよなぁ」

怪我を負った状態でこの本部に運び込まれたという少年。
彼は療養中に、サポート派の面々と大分親交を深めたらしい。

「次の任務は、あの子と一緒に行ってもらいたいんだ」

だから、コムイからこう言われた時、マリは好機だと思った。
噂の新人は弟弟子の良い仲間になれるか、どうか。
共に任務に赴けば、見極めることも出来るだろう。

「……ん?」

司令室の長椅子に座っていたマリは、ふと顔を上げた。
風が吹いたわけではない。
空調だって、いつも通り穏やかだ。
それなのに、足許からじわりと体が温められるような心地がした。
その温もりがやって来た方向に顔を向ける。
人の話し声が近付いてきた。
傍らのリーバーが呟く。

「お、来たかな」

やって来る声の一つには、まだ幼さが残っている。
これが件の新人なのだろう。
そしてもう一つは、よく知るコムイのものだ。

「うわあ……!」

待たせたね。
そう言うコムイの声に、マリは言葉を返すことが出来なかった。
感嘆が聞こえる。
それと時を同じくして、自分の心が大きく揺り動かされたからだ。

「(何だ……?)」

すごい、すごい、すごい!
――特に、何があったわけでもないのに。
何故か、マリは大きな感動に包まれていた。
舞い上がるような、踊り出すような心地だ。
しかし一体何がこんなに嬉しいのか、自分にはさっぱり分からない。
自分の心が、自分のものでは無くなってしまったようで。
何も分からないのに、ただひたすら「すごい」と。
思わず口に出してしまいそうなほどに、マリの心は弾み、興奮していた。
戸惑うマリの前で、明るい声が響く。

「本がたくさんある!」
、本好きなの?」
「うん、嫌いじゃない……うわあ、すごい……!」

――彼の、心だ

今感じている気持ちは、喜びも、期待も、嬉しさも、全て目の前にいるらしい少年の心だ。
盲目であることなど問題にならないほどありありと、彼の存在が認識できる。
見ることの叶わない少年の表情さえ、容易に想像できた。
優しく笑いながら、コムイが少年の注意を此方に向ける。

「彼はノイズ・マリ。今回は彼と二人で任務に行ってもらうよ」

軽い足音が、小走りでマリの目の前にやって来た。
弟弟子も華奢だとは思っていたが、彼は輪をかけて小柄なのかもしれない。

です。初めまして」
「よろしく、。気軽に呼んでくれ」
「う、うん……」

の声が、僅かに戸惑いを孕む。
ああ、とリーバーがこれまた困ったように声をあげた。

「その、なんだ、……彼は、目が見えないんだ」

そのことか。
マリ自身は納得したが、部屋には沈黙が降りている。
気にするな、と言うべきか。
それとも不安か、と聞くべきか。
マリの一瞬の杞憂は、突如動いた空気が蹴散らした。

「(ああ、笑った)」

少年が破顔したのが、手に取るように分かる。

「そっか! あのね、握手したかったんだ。よろしく、マリ」

掬い上げるように、大きくなりきれていない手がマリの手を掴んだ。
ぎゅ、と感じた温もりに、心まで掴まれてしまったようで。
マリはその手をそっと握り返した。









少年が書類を読む速度はなかなか速い。
文字を読めないのでは、という危惧もあっただけに、結構な衝撃である。
しかし、考えてみれば、彼は科学者でもあるクロスの弟子なのだ。
最低限の知識は、修行の中で身に付けさせられた可能性もある。
何にせよ、この組織の中で他人の過去に迂闊に触れることはあまり得策ではない。
マリは心の中で感心するに留め、その点に関しては声を掛けなかった。
鞄を手に、地下水路への階段を降りる。
司令室からの流れで見送りに来たのは、コムイとリーバーだ。

「クロス元帥は、来ないのか?」

彼の師は、長期放浪の罰として本部滞在を命じられている筈である。
弟子の初任務だ、見送りくらいはするだろうと、自身の師を物差しにして問う。
が軽やかに答えた。

「うん。いびきかいて寝てた」
「……そ、そうか」

声の調子はあっけらかんとして明るい。
本人は恐らくまたにこりと笑って答えているのだろうが、マリは少し呆れながら頷いた。
適当な人だなぁ、とリーバーが呟き、まあまあとコムイが宥める。
不意に、連れ立つ四人の先頭でが足を止めた。
急に空気が薄くなったような奇妙な感覚を覚えながら、マリは少年を窺う。

?」

どうしたのだと問い掛けても、答えはない。
が再び歩みを進める。
その時、階下から啜り泣きが聞こえるのに気付いた。
尊い命が失われるのは、残念ながら珍しいことでは無い。
きっとまた、その類いだろう。気の毒に。
少年の様子を訝しむ背後の二人には、この声がまだ聞こえないのだろう。
そこで初めて、妙なことに気付いた。

「(それは……おかしい)」

自分の増幅された聴力だから聞こえるのだ。
自分より前に居るとしても、にこの声が聞こえている筈は、無いのだ。

「(何故、この子は)」

ならば何故、彼は足を止めたのだろう。
まるで、躊躇うように。
少し先の自分が出会う悲しみを、既に知っているかのように。
思えば、が足を止めた時からだ。
彼から感じていた柔らかな温もりは根こそぎかき消えてしまった。
代わりに、マリの肌は粟立っている。
矢を放たれる寸前、引き絞られた弦のように、胸が苦しい。
背後のリーバーが、マリと同じように戸惑った呼吸をしている。
マリはコムイを振り返った。

「大丈夫」

彼は苦笑するように囁いた。

「……その感覚は、多分悪いものじゃないんだ」

言葉の意味を問う前に、足は目的の階を踏む。
少し前から、啜り泣きは誰の耳にも分かるくらいはっきりと聞こえていた。
そして今、泣き声は目の前にある。
出立前にこの光景に立ち会うのは、心を僅かに弱らせる。
しかし、こうした悲劇を繰り返さないよう自分達が発つのだ、と。
マリが決意を新たにした傍らで、少年が動く気配がした。
衣擦れ、そしてしゃがみこむ音。

「誰が、亡くなったの?」

余りにも静かな声が、問う。
誰かが答えた。

「わ、我々の……隊長、が……」
「俺達を……っ、逃がす、ために……!」

しゃくりあげる声。
嗚咽が大きくなる。

「そう……」

だというのに、寄り添うように優しいその声は、不思議と際立って聞こえた。
先程までのひとときはあんなに苦しかったのに。
空気が、柔らかく揺らいだ。
少年が「微笑んだ」のだと、分かった。

「隊長さんは、頑張ってくれたんだね」

ありがとう。
皆を守ってくれて、ありがとう。
甘やかな声が、隊服を撫でるような音と共に聞こえた。
言葉も無くし、誰もが息を詰めての挙動に見入っている。
それを感じたのか、彼がまた微笑む気配がした。

「(あたたかい)」

その微笑みを向けられたのは、マリではないのに。

「帰ってきてくれて、ありがとう」

景色を映すことの無いこの目が、じんわりと熱を持つ。

「生きていてくれて、本当に良かった……もう、自分を責めないで」

――黄金色

彼の印象を、そう語った者がいた。
容姿を語っただけの言葉だと思っていた。
けれどマリの目にも、その色に輝く彼の姿が、確かに「見えた」のだ。
再び溢れ出る嗚咽の一つ一つに声を掛け、優しく慰めて、彼は漸く立ち上がったようだった。

「何をもたもたしてやがる」
「……師匠」

気付けば、マリの背後には男の気配がある。
空気に広がっていた光の粒子は少年に収束し、輝きを強めた。

「お前が今やるべきことは何だ、
「魂を還すこと。でも、心だって赦されるべきだよね?」

クロスの声に、弟子の声は迷いなく答える。
の師は溜め息をつきながらも声に笑みを滲ませた。

「でかい口叩きやがって、バカ弟子が。――行ってこい」
「行ってきます」

お待たせ、マリ。
少年の手が、マリの袖に触れた。
弟弟子だけに留まらない。
消えてしまいそうな心も、消えてしまった想いも。
光と影の別なく誰にも平等に差し伸べられ、誰をも公平に掬い上げる。

「――ああ、行こうか」

その手の尊さを想って、マリは頷いた。









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