燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









20'Birthday









縋り付いていた相手は、毎朝、を起こさぬようにそっとベッドを出る。
クロスは意外にも早起きで、朝日を浴びながら一服するのが毎朝の習慣のようだった。
はいつも全裸の後ろ姿を薄目で盗み見る。
起きていることを悟られぬように、そっと。

「(でも、多分、バレてるんだ)」

そんな気がしている。
今日も、クロスはが起きているのを前提にいきなり言い放った。

「よし、

赤い髪が揺れ、師が肩越しに振り返る。

「今夜は出かけるぞ」
「……だれのお店……?」

最近は、日が昇ると、ようやく眠っても許されるような気持ちになる。
欠伸を堪えて問い返すと、思いもよらない答えが返ってきた。

「サーカスに行く」
「……サーカス?」

は身動いで、上半身を起こした。
サーカスといえば、昨日、広場でチラシを貰ったのだ。
確かに、今晩公演があると書いてあったような。
は首を傾げた。

「見たいの?」
「用が……いや、探し物がある」
「何か落としちゃったの?」
「まあ、そんなところだな」

落し物なら、のんびりしている場合ではない。
誰かに蹴られたり拾われたり持っていかれたりして、無くなってしまうかも。

「それなら早く行って、探さなきゃ」
「いいんだ、開演してからの方が都合がいい」
「(なんで?)」

は首を捻る。
何か、様子が変じゃないか。
その違和感の理由を突き止める前に、煙草を灰皿に押し付けたクロスがずんずんとベッドに歩いてきた。

「ほら、もう一眠りするぞ」
「……もう朝だもん、起きなきゃ」
「オレが眠いんだよ。そっち詰めろ」
「……だめな大人……」
「この減らず口め」
「むぴゅ」

クロスの手は大きくて、の顔なんか片手で掴めてしまう。
正面から遠慮なく頬を挟まれて、ベッドに転がされる。
変な声が出た。
寝転がったまま頬を抑えてクロスを見上げると、輪郭がぼやけてきた。
眠い。
いつの間にかベッドに入ってきたクロスが、を抱き込む。

「(あったかい……)」

背中を、ゆったりとしたリズムで叩かれる。
温かい。
手が、大きいなぁ。
落ち着いた呼吸が聞こえる。
目を閉じてもしばらくの間は、きっと赤色が黄昏を遠ざけていてくれるだろう。

――何か、欲しいものはあるか?――

数日前、唐突に聞かれた。
心臓に氷を突っ込まれたかと錯覚するほどに驚いて、は反射的に、けれど明確に答えた筈だ。
――なにもしないで、と。
答えた筈だけれど、クロスにも伝わらなかったのだろうか。
自分が生まれた日を祝われるのに「変な感じ」がするようになったのは、いつからだろう。
祝われるたびに妙に申し訳なくて、
居心地が悪くて、首を竦めたくなるのだ。
けれど、家族が、何よりが幸せそうな顔をしたので。
彼らが楽しむ顔を見られる、そういう日だと思って過ごしていた。
でも、今年は、誰もいないから。
十一月十四日から、特別な意味は喪われた。

「ゾウ、いるかな」

フードに隠れて黄昏から顔を背けながら、は呟く。
クロスは朝の宣言通り、を夕方の広場に連れてきた。
探し物というのは口実で、のことを祝おうとしているのではないか。
勘繰ってみたものの、いまいち確信が持てないままは師に従っている。
朝からずっとチラシを見せられているから、流石に気持ちが高まってきた。

「見たいのか?」
「おっきい動物なんでしょ? 僕、絵本でしか見たことない」
「昨日見た感じ、そこまででかい檻は無かったがな」
「えっ、じゃあ、いない……?」
「かもな。でも、ライオンはいるかもしれん」

それは、見てみたいかもしれない。
本には「百獣の王」と書いてあった。
かっこいい。
ピエロは見られる?
クラウンは?
ピエロとクラウンって何が違うの?
綱渡りは?
空中ブランコはあるかな?
思いつくままにクロスに訊ねると、そのたび師は呆れたような顔をしながらも答えてくれた。

「空中ブランコはあるんじゃないか? ああ、……そうだな、アレは確かに、お前は好きだろう」

広場に足を踏み入れる。思っていたより遥かに大きく、背が高い。
今からあの中で、心躍る演目を、――見る、筈だった。
――夕焼けの中で。
女の子が。
男の子が、駆ける。
父親の手を握って、ぴょんと飛び跳ねて。
母親の手を引っ張って急かしながら。
フード越しにも分かる、そわそわとした浮かれた気持ち。
興奮を待ち焦がれるような、或いは自分を待っている興奮に駆け寄っていくような。
――夕焼けの中で。
ぎゅっ、と胸を締め付けるような痛みがあった。

「――ひっ、」

は踵を返して駆け出した。
足が止まらない。
此処にはいられない。
此処には、いられない。
この世界には、いてはいけない。
笑顔を浮かべる人々の間をすり抜けて、逃げる。
此処に、いてはいけない。
いられない。風がフードを落とす。
空気が纏わりついて、絡みついて、集まった人の気持ちを伝えてくる。
覚えのある、高揚感。
プレイベルにサーカスが来たことは無かったけれど、は、これに似た感覚を知っている。
月に一度、村人全員が集まるあの礼拝。
神聖な祈りの場ではあるが、数少ない娯楽のひとつとして誰もが聖歌隊の合唱を楽しみにしていた。
あの感覚と似ている。
けれどもう、誰もいない。

「(もう、誰もいないっ……)」

だから、似たような光景の中で一人、取り残されたような気持ちになって。
此処は、自分のいるべき場所ではないと確信して。
そうしたら、もう、一瞬たりとも其処にはいられなかった。
顔を上げる。
夕焼けが目を灼く。
フードを直す間も惜しい。
は路地裏の暗がりに駆け込む。
塀の影、一番暗い場所でしゃがみ込む。
がくがくと震える体を、自分の両手で抱き締める。

「……ぼくの、せいだろ……」

クロスと共に村を離れて、そろそろ一年になる。
修行の中で知ったのは、の家族や村に起きた悲劇は、ありふれたものだということだった。
愛する人が死んで、その人に会いたくて相手をAKUMAにしてしまう人がいて。
そして、集落がAKUMAの襲撃で破壊される。
ありふれたものだ。
不幸を他人と比べても何にもならないが、それにしてもどこにでもある悲劇のひとつだ。
でも、だからこそ。

「(どうして、父さんと母さんだったの)」

そんな悲劇はどこにでもあって、けれど、誰もが千年伯爵を呼んでしまう訳ではないのだ。
誰もが千年伯爵に見つかってしまう訳でもない。
どうして、他の誰でもなくの両親が、見つかってしまったのか。

「(どうして、僕の村だったの)」

どうして、プレイベルの住人は一人残らず死んでしまったのか。

「(どうして、僕だけ)」

どうして、だけが。
今ものうのうと息をしているのか。
村人とを分けたものは何だったのか。
イノセンスか。
たかが、そんなもののせいで?

「どうして……」

どうして、アクマは他の誰かを狙ってくれなかったのだろう。
どうして、他の村を襲ってくれなかったのだろう。
隣の村が襲われていたら、プレイベルは無事だったし、村人は、はまだ、生きていたのに。









――それが、きみのねがいなら









「――ッ、ちがう!!」

他人の不幸を望むなんて。
自分の思考に怖気が走って、愕然として、は思わず顔を覆った。

「……ちがうよ……!」

今、は、罪もない「誰か」の命を、躊躇いもなく消そうとした。
罪もない「誰か」を、自分と同じ悲しみに突き落とそうとした。

「(ちがう、僕のせいだ)」

のせいだ。
が一人になってしまう未来を案じて母はを身篭り、身体を壊した。
が手紙に母親を恋しがるのことを書き連ねたから、父はきっと、AKUMAを呼んでしまった。
が黒い銃の扱い方を知らなかったから、を助けることが出来なかった。
村人が一堂に会したあの教会にがいなかったのは、家族で過ごしたいと我儘を言ったからだ。
――あの日からだ、空気の声が聞こえるようになったのは。
を見下ろす誰かの視線を、神様の思惑を、感じるようになったのは。

「……ほら、やっぱり、……ぼくのせい……」

直視すれば、罪が重すぎて涙さえ零れない。

「僕のせい……僕の、僕のせいだ……」

僕が悪い。
だからこの罪は、僕が償って、僕が贖って、皆のことを弔って、皆に謝って。
許されなくても。
そうしなければならない。
のせいで」幸せな世界は壊れたのだから。
が」、壊したのだから。
僕が、悪いのだから。



突然、声が聞こえた気がした。
体が引っ張られる。
熱いものが、を締め付けるように抱き竦める。

「僕が……」

熱い。
視界が暗くなり、空気が何も喋らなくなった。
耳元に布地を感じて、フードの存在を思い出す。
世界から、空気から、神様から、を隠してくれる、おじさんがくれた魔法の布。

「僕さえ、いなければ」
、オレの声を聞け」

低い声が、耳の奥底を打つ。
荒らげている訳でもないのに、頭の中に直接叩きつけるような豊かな質量。
少し掠れていて、重たくて、じわりと熱を発するこの声に覚えがある、――は瞬きをした。
広くて厚くて、熱い胸に、頬を押し付けられている。
少し顔を動かしてフードの端から見上げると、毎夜頭上にある顎髭が、そこに見えた。



彼が、あまりにも気遣わしげにを、呼ぶので。

「師匠……?」

どうしたの、と聞きたくなって、嗚呼そうだ、はクロスを置いて逃げてしまったのだと思い出す。
ごめんなさい、あなたの優しさを全部無駄にして。
ごめんなさい、迷惑をかけてしまった。
ごめんなさい、心配させてしまって。
ごめんなさい、――あなたも、見つかってしまうかもしれない。

「ライオン、見なくてよかったのか」

熱い熱い腕が、をがっしりと抱き締めていて、身動きが取れない。
それでいてクロスの片手はの背中をそっと宥めるように叩いている。

「うん……あ、探し物、しなきゃ……」
「ティムに探しに行かせた」
「ご、ごめんなさい……」
「そうじゃねェ、馬鹿弟子」
「うみゅっ」

突然体を離して、クロスがの頬をまた片手で挟む。
反対の手はの肩を強く握ったままで、正面から睨みつけられる。

「(……ううん、)」

睨んでなどいない。
真剣な眼差しでを真っ直ぐに見つめている。

「いきなりいなくなるな。驚くだろうが」

はつい目を逸らしたが、クロスはそれを許さない。
頬と肩を掴む手の力が強められて、クロスを見るよう強いられる。
見つめては逸らし、逸らしては見つめて、は他にどうしようもなく、呟いた。

「ごえんなひゃい」
「分かればいい」

ようやく頬から手が離される。
痛む頬に手を当てていると、クロスが長く深い溜息をついて項垂れた。
は慌てて繰り返す。

「師匠、あの、ごめんなさい」

その言葉を塞ぐように、フードの上からぽんぽんと頭を押さえられた。
クロスはそのまま立ち上がり、の肩に手を添えて大通りへと促す。

「今日はアニーの店にでも行くか。お前、あそこのトライフル、結構好きだろう」
「……うん、好き。師匠も、嫌いじゃないでしょ」
「ベタベタに甘ったるくないのがいいんだよな、アニーはそこの所の塩梅が上手い」

暗がりから一歩連れ出されると、街灯の明かりが眩しい。
フードを深く被り直して片手で押えながらはクロスの背中を見上げた。

「(もしも、この人まで失ってしまったら)」

背筋がゾッとして、肌が粟立って、クロスの団服をそっと掴む。
否、ぎゅっと握り締める。
耐えられない、きっと耐えられない。
幸せだったあの世界の住人の中で、ただ一人、と共に生きている人だから。
生きていて欲しいのだ。
生きていて。
どうか、健やかに。
瞳の奥の優しさを隠しきれないクロスに、は迷惑を掛けすぎている。
だからもう、手遅れかもしれないけれど。
それでも、どうか彼だけは。

「(どうか、おねがい)」

迷惑にならないように、一生懸命努力するから。
心配をかけないようにするには、そうだ、笑っていればいいのかな。
もう、「福音」を怖いだなんて言わないから。
求められる姿に、弟子に、「エクソシスト」に、きっとなってみせるから。だから。

「(どうか、)」

この人だけは見逃して。










201114