燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









18'Birthday









林檎チップスを作ったのは、勿論ジェリーだ。
数日前に頼んでおいたら、今朝方、温かな眼差しを添えて手渡された。
尤も、その瞳はサングラスの向こう側なので見えはしなかったが、クロスは確信している。

「(あの口許は間違いなく笑っていやがった)」

甲斐甲斐しい、微笑ましい、似合わない――導きだされるのは大体こんな言葉なのだろう。
思えば、かつてマザーにも散々言われたものだ。
確かに自分には似つかわしくない行動だったと、クロスも思う。
けれどあの頃は、忘れ形見を守るための手段を選んでいる余裕などなかったのだ。

「――

クロスは、弟子の名を呼んだ。
立ち上がりながら手に持つグラスを置く。
隣に座る彼の手から、まだ一度しか中身を注いでいない重たいワインボトルを抜き取った。
テーブルに無造作に置くとごとり、と音が床にまで響く。
グラスとボトルを倒さぬよう、テーブルに触れぬよう、クロスは床に膝をついた。

「今日は、よく頑張った」

弟子の膝に手を置いたところで思い直し、空いている彼の手をそっと掴むことにした。
見上げた唇からは血の気が引いている。
目は開いているのに、真正面の赤を微塵も見てはいない。
開いた目の奥が恐怖に竦み、クロスが掴んだ指先は凍えて震えていた。
そっと溜め息をついて、温もりを移すように指を撫でてやる。

「……もっと早く逃げてきたって、よかったんだぞ」

どうせ、今のには「此方の世界の音」は何も聞こえていないのだ。
今、鮮烈な黄昏に目を灼かれ、降り積もる雪の静寂の中に取り残されている、彼には。
修行時代は頻繁にあった光景だ。
こうしては唐突に、過去へ意識を飛ばしてしまう。
道端であろうと、食卓であろうとあの頃はお構いなしだった。
けれど、黒の教団に入ってからこちら、すっかり鳴りを潜めたと思っていたのに。
――ほんの、十数分前のことだ。
クロスの部屋の扉が乱暴に叩かれたのは。
ドドド、ドンッ、ドン、ドンッ。
不規則なリズムとその騒々しさに、クロスは足音高く部屋を横切り、遠慮なしに扉を開け放った。

「うるっっせェ!!」
「あははははっ! 師匠だ、あははっ」

開けた瞬間流れ込む空気で、見る前に犯人は分かった。
胸の辺りで軽快な笑い声が聞こえるので、拳を振り下ろす。

「痛っ! ……ふふふ、怒ってる?」
「当たり前だ」
「師匠の怒鳴り声も五月蝿いよ。……えへへぇ」

いったい何がおかしいのか、笑いが止まらない様子のは、クロスにしなだれてきた。
受け止めながら、酒でも飲まされたか? と訝ってみるが弟子は子供のくせに自分より酒に強いことを思い出す。
ならば科学班から何か変な薬でも飲まされたのだろうか。

「お前、何か飲まされたのか?」
「んー? なんにも飲んでないよ。ん、ふふっ。違うんだ、俺ね、師匠にお酒飲ませに来たんだっ」

軽快に言い放ち、クロスを押し退けてが部屋に入った。
おい! と止めるのも聞かず、ワインの棚を開けている。
飲むでしょ? どれがいい? あ、また新しいの増えてる!
ねぇ、いつ買ってきてるの? 買い貯めしてくる師匠って想像つかないや、変なの!
変なのはお前だ、と怒鳴りつけたいのをすんでのところで押し留めながら、手招かれるままソファに腰掛ける。
明らかに様子がおかしい。
クロスは、とうにその原因に気付いていた。
はぴたりと隣に座って、楽しそうにボトルの栓を抜く。
クロスの持つグラスにワインを注ぎ、よーし、と満足げに頷いて、それからだ。
彼がふっ、と視線を遠くに投げたのは。

「――

そうしてクロスは、弟子の名を呼び立ち上がった。
教団で過ごす初めての誕生日。
きっと、は自分がこんなに盛大に祝われるなんて、思ってもみなかったのだ。
他人の誕生祝いには嬉々として加わり、相手が涙するほどの祝辞を送るのに。
自分なんかが生まれた日を知られたくない、とはコムイにも正確な日付を教えていない。
その思惑に反して、誰もが彼の誕生日を祝おうとしている。
それはそうだ、とクロスは納得できてしまうけれど。
なにせ「教団の神様」の誕生日だ。
家族意識の強い一部の団員と特に親しくしているということもある。
否、そうでなくとも、きっと彼は盛大に祝われてしまっただろう。
祝いたいという団員達の気持ちは、クロスだってよく分かるのだ。
それでもクロスは、そうしてこなかった。

「(嫌なことほど、苦しいことほど、拒めない奴だから)」

出来るわけがない。
仮面の内側のどろどろに崩れて掻き乱された中身を、靴底で地面に擦り付けるような。
そんなこと、クロスには出来なかった。
誰に何と言われようと、「彼」の忘れ形見を、これ以上壊したくなかったから。

「ジェリーが作った林檎の菓子があるぞ」

だから「此方の世界」に戻ってこい。
さて、林檎という言葉が効いたのか、それとも単なる偶然だったか、の漆黒がクロスに焦点を結んだ。
前者かもしれない。
クロスはその可能性を思うだけで、つい笑ってしまった。

「……師匠……?」
「何でもねェよ」

頭を撫でて立ち上がり、また隣に腰掛ける。
がまだ少し虚ろな眼差しをクロスに向けた。
ついさっきまで隣に座っていた師がなぜ目の前で跪いていたのか、考えているのだろう。
クロスは説明する気もなかったので、改めてグラスを持ってを振り返った。

「食っていいぞ」
「何を……?」
「つまみのついでに貰ってきた」

ほら、と林檎チップスのかごを渡す。
受け取ったが、中から一枚摘まみ上げてしげしげと眺めた。

「なにこれ」
「林檎だろ」
「え、うん……林檎だね……」

クロスは数枚まとめて口に放り込んだ。

「ジェリーはまた腕を上げたな。なかなかいける」

がぼうっと此方を見上げている。
目で促すと、弟子は摘まんでいた一枚を唇にくわえた。

「ん、……おいしい」

ちまちまと食べ進める黄金の旋毛を見下ろして、クロスはそっと彼の肩を抱き寄せた。
は、逆らわない。
今はまだ、逆らうだけの力がないのだ。
しばらくもそもそと林檎を咀嚼して、がクロスに体重を預けようとする。
このまま眠ってしまうなら、それでもいい。
クロスはゆっくりと肩を叩いてやる。

「ねぇ、おじさん」

微睡むように、が呟いた。

「……僕で、ごめんね」

言葉が、涙のように空気を滲ませる。
クロスは彼の言葉に傷付いている自分自身にまず驚いた。

――ありがとう、ごめんね――

ここ数日彼が団員たちに困った顔で返すそれは。
素直に祝福を受け取れないことへの謝罪なのだと、勝手に、思っていたから。
驚き、それから、胸が締め付けられるままに、同じだけの力でを抱き締める。

「……痛いか」
「うん」
「なら跳ね除けてみろ」

彼が、そうしないと知っていて、言う。
痛みさえ、罪の証として拒みもしない。
痛みさえ、それを味わうことで贖えるのだと微笑みながら。

「だって、これは、罰でしょう?」

いつだって変わらないその振る舞いにどれほど自分が傷付くのか、クロスは初めて、自覚する。
だからグラスを置いて、長い息を一つ吐いた。

「何の罰だよ」

声が、震えていないといい。

「お前、何をやらかした。ん?」
「……生きてる」
「それの何を罰するってんだ」

腹の底が熱くて、熱くて。
けれどその熱で包み込んだとて、この熱で焼いたとて、彼は、きっとそのままの形で在るのだと分かっていて。

「あいつらが死んじまって悲しいことと、寂しいことと、それとお前が生きてることを、一緒にするな」

が体を竦める。
それでも募る言葉を、駆け上がる熱量を押し込めることが、今日のクロスには出来なかった。

「お前だって悲しんでいいし、お前だって生きてていい」
「でも、」
「うるせェ。お前は、オレの弟子でいればそれでいいんだ」

――生きているのが僕で、ごめんね、なんて。
言わせたくなかった。
価値なんか、何だっていい。
否、そんなものは、なくてもいい。
お前がお前であればそれだけでいい。
そう伝えたいけれど。

「……いいんだ、。それだけで」

傷付けたくない。
壊したくない。
勝手に穢れていると思い込み嘆いている無垢な子供を、それよりずっと汚れた泥だらけの足で踏み躙りたくない。
けれどせめて、焼けた油のようなこの熱に触れさせたくて。
形が変わらなくとも、何も変えることが出来ないのだとしても。
いつか、いっそ君が彼らの許へ向かうとき、その道中でも構わないから。
君に、君自身の価値を分からせたい。
嗚呼、今日の自分はなんだか、おかしい。

「オレは、気に食わない奴を傍に置いたりはしねェんだよ。知ってんだろ」

の顔をぐいと抱え込み、無理に胸に押し付けた。
部屋の明かりに艶めく黄金色を、クロスの熱に溺れさせることができたらどんなにいいか。
けれどそこまでは望まないから。
黄金色を逃がさぬように掬い取り、絡め取り、撫でた。
抱いた背中がぶるりと震えて、彼が短く息を吐く。
暫く、ずっと、そのままでいた。
二人の息の音。
息の音。
息の音。
息の音。
息の音、息の音、――息の、音。
意識して、深く深く息をする。
に聞かせてやるように。
強張っていた彼の身体から力が抜けるのを、いつまでもいつまでも待つ。
「幸せな世界」の彼らも、今日ばかりはあんな言葉を聞きたくなかったろう。
あの世界の彼らは、諦めなかった。
――きみがいきていてくれて、よかった、と。
が本当は何一つどれ一つ受け取れていないのだと知っていても、彼らは決して諦めなかった。
だから、託されたクロスもそれに倣うのだ。

「……

今年も、君が生きていてくれて、よかった。










181114