燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
聖女はかく語りき「何者でもない私たちならば」
ミラノの街角で、カフェのテラス席に座って、テーブルにはイチゴとブルーベリーのタルトが置かれていて。
ラテマキアートはこっくりとした優しい味で、心を落ち着かせてくれる。
目の前には、特別な意味で好きだと思ったこともある相手。
だからこそリナリーは唇を噛んで俯いた。
完璧なティータイムなのだ――この、真っ黒な団服さえ着ていなければ。
「何もかも全部投げ出したくなる時って、あるよね」
そう言って微笑むその人はこの気持ちを理解してくれているのか、疑わしい。
「(だって、お兄ちゃんは絶対何かを投げ出したりしない)」
任務に行きたくないなんて、そんな駄々をこねるようなこと、この人はしない。
疑わしいどころではなく、彼はリナリーの気持ちを本当には分かってくれないと思う。
「ここのタルトはカスタードクリームが美味しいって、ジェリーが言ってたよ」
彼に嫌なことをされた訳では無いのに、ついムッとして唇を曲げてしまった。
そんな自分に気付いて、また落ち込む。
「……ジェリー、ここ来たことあるの?」
「らしいよ。ミラノでリナリーと合流するって言ったら、オススメされた」
リナリーの刺々しい言葉なんて気にした風もなく、彼はにこりと優しい目を向けてくれた。
「連続の任務なんてひどい、絶対に気分転換が必要よ! ってね」
物真似はあんまり上手くないんだな、と彼の意外な一面を見つけた。
いつもだったら、そんな小さなことにも心を弾ませることが出来た。
「(連続の任務なんて、よくあることだわ)」
でも今日は、駄目なのだ。
どうやっても心がくさくさして、イライラと不機嫌で、朗らかになれない。
ここが本部の科学班なら、飲み物を配る少しの間だけ頑張るのだけれど。
任務の地で探索部隊と共にいるのなら、不安にさせないように頑張るのだけれど。
「前の任務で、嫌なこと言われたんだって?」
この人の前では、可愛い私でいたいから、頑張りたいのだけれど。
「……別に、嫌なことなんかじゃ、ないの」
この人の前だから、まぶたの縁から熱い涙がほろっと零れてしまうのだ。
「嫌なことなんかじゃ、ないんだから。だって、別に私、感謝されたくて、こんなことしてる訳じゃない」
そもそも、やりたくて、エクソシストなんてやってる訳じゃない。
助けた人に感謝されたい訳でもない。
破壊したアクマの材料になった人がどんな人かなんて、知らない方がきっと心置きなく戦える。
そう強く強く思うくらい、前の任地の住人たちはとにかく辛辣だった。
――アクマだなんて、ヴァチカンが言わなきゃとても信じられないね
――歴史ある街をこんなに壊して……責任は取ってくれるんだろうな!?
――あんな碌でもないアニキを生き返らせようとした結果がこれかい
――あんな碌でなし、殺されたのも自業自得だったろうに
――兄弟揃って迷惑ばっかりかけやがって
伯爵を頼ってしまった青年は街の厄介者。
喚び戻された魂は、女性を誑かしては手酷く振ることで有名な兄。
痴情のもつれで刺し殺されたことさえも同情されないような人だ。
そんな兄弟の起こした騒動に対して住人たちの目は厳しい。
ヴァチカンの名を掲げて街を破壊したリナリーたちへの苦情は、既に亡い兄弟への八つ当たりのようにまだまだ続いた。
リナリーは探索部隊に逃がされる形で、次の任地ミラノへやってきたのだ。
「そんなに嫌われてる人だったのに、弟はもう一度会いたいって思ったんだなぁ」
一人だけリナリーに同行した探索部隊員から、事情を聞いていたのだろう。
「それに、兄の方もその声に応えたわけだ」
もしくは、コムイから聞いていただろうか。
リナリーが「任務に行きたくない」と思ったことなんて、兄にはバレバレだっただろうから。
彼は感慨深く呟いて、角砂糖の包みを開けた。
大きな角砂糖を小さなエスプレッソのカップにそっと差し入れる。
彼はあまり甘い飲み物は好まないけれど、そう飲むのだと先程説明されたらしい。
「私だって、……兄さんが仮にどんなに嫌われていても、私にとっては大切な兄さんだわ」
「そうだね。俺だって、妹が……」
スプーンをカップの壁に押し付けて砂糖を崩しながら、彼は顔を上げた。
「どこの誰に嫌われても、リナリー自身に嫌われてても、リナリーは俺の大事な妹だよ」
リナリーはカップを握り締める。
「嫌になっちゃったっていいんだ。リナリーは、ちゃんとミラノまで来たんだから。……偉かったね」
その言葉にじんわりと寄り添われてしまったから。
「子ども扱いしないでっ」
今日は可愛い自分になれないけど、もう、いいや。
リナリーは頬を膨らませて素っ気なく彼に甘えた。
小さな丸いタルト。
イチゴとブルーベリーがこんもりと乗って、その上に綺麗な粉砂糖がかかっている。
小さなフォークを差し込んで刺すと、生地が割れて、フォークと皿が当たるカツンという音がした。
「お兄ちゃんは、嫌になることなんて無いでしょ」
「あるよ。俺をなんだと思ってるの」
彼は目を細めて笑って、ぐいとカップを傾けた。
「不思議な味」
230805