燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









聖女はかく語りき「砕かれた心の行方」










 一般人が建物の崩壊に巻き込まれた――その事に神田が気付いたのは、戦闘がすっかり終わった後だった。
 同行した探索部隊員のようにアクマの血の弾丸で貫かれたならば、苦しみは瞬きのうちに過ぎ去っただろうに。
 哀れな青年は、その時崩れてきた建物に胸から下を押し潰されている。

「(あれは助からねぇな)」

 ひと目で見て取れる状況なのに、青年の手を握る男は、まだ諦めていないようだった。

「がんばれ! すぐに瓦礫を退けてやるからな!」
「し、しょ、うは……」
「俺は無事だ、大丈夫だ! お前が突き飛ばしてくれたから……ありがとう、すまない……っ!」
「ししょ、う、は……」
「っ、聞こえるか? おい、大丈夫だ、俺は大丈夫だよ! しっかりしろ、聞こえてるか!? おい、頼むからっ」

 職人の師弟らしいことは、男の風貌と青年の濁った声で分かった。
 近隣の住人や通行人、無事だった探索部隊たちが手分けして瓦礫を退かそうと周囲で騒いでいる。

「(どうせ間に合わない)」

 隙間から広がり続ける夥しい血液。
 死体を引きずり出すだけならば、急ぐ必要は無いだろう。
 死の間際の青年に、もう正常な感覚があるかも分からない。
 そんな体を、動かした瓦礫で余計に傷つけ痛みを与えてしまう方が不憫だ。
 それよりも、青年の手を握る男の右脚が折れ曲がって骨が飛び出ている、そちらの方がよほど重大だ。
 男は自分の怪我に気付いていない訳では無い、その証拠に弟子には見えぬよう脚を強引に後ろに隠していた。

「ここは我々に任せて、あなたも治療を……」
「うるさい! 俺はかすり傷ひとつない! 大丈夫だ! だから早く俺の弟子を、早く、助けてやってくれ!!」

 自身も腕から血を流しながら探索部隊員が声をかけるが、男は決して首を縦には振らない。

「あんたも、無事なら、頼むから手伝ってくれ! あんた達がこの建物を壊したんだろうが!」

 それどころか神田を見て、名指しで援助を強請った。血と埃に塗れた頬に、涙の道が出来ている。

「こいつは、筋もいい、頭もいい、気も優しい、よく出来た弟子なんだ! こんな俺にはっ、もったいないくらいのっ!」

 神田は男の右脚に向けていた視線を逸らした。
 このままでは、そのよく出来た弟子が神田の視線を辿って、師匠の怪我に気付いてしまいそうだったから。

「自慢の弟子だっ! こんなっ、……!!」

 ――こんなところで、こんなことで、死んでいいようなやつじゃないんだ!!
 その言葉を、男はすんでのところで飲み込んだ。
 弟子の死を認めたくもない。
 弟子を、絶望させたくもない。
 先程まで周囲で暴れ回り、今はすぐそばで燻っている機械――アクマのことも知らない。
 既に破壊された機械には、八つ当たりもできない。
 となれば、事故の元凶は機械と共に暴れ回ったローズクロスの服の連中ということにもなろう。
 けれど、弟子の前で元凶を罵る暇があるのなら、弟子を安心させてやりたい。
 そして一刻も早く助けて欲しい。
 神田は「彼」ではないけれど、男の考えていることは手に取るように分かった。
 当然のように、手を握られた弟子にも気持ちは伝わっていて。
 ならば。

「――大丈夫」

 隣の通りから戻ってきた「彼」が、堪りかねてその顔をすることもまた必然だった。
 いつの間にか男の隣に膝を着いていた彼は、男の手の上から青年の手を握り込んだ。
 神田の位置からは屈み込む背中しか見えないが、彼が微笑んでいることなど見なくても分かる。

「俺の声、聞こえてるね。……うん、お師匠様は無事だ。きみのお蔭だよ、ありがとう」

 男は弟子から手を離して愕然と尻もちをついた。
 彼はそんな男を宥めるようにちらりと見遣って、それから地面にぱたりと投げ出された青年の手を握り直した。
 もう一方の手で青年の手を摩り、握り、また摩る。

「どうだろう、これで寒くはないかな……そう、それならよかった。……うん、此処にいるよ」

 眠っている人も起きないくらいひそやかで優しい声音なのに、神田のところまではっきりと言葉が聞こえる。

「大丈夫。きみが目を閉じても、ちゃんと傍にいる。だからもう、大丈夫。大丈夫だ」

 彼の手が、青年の額にそっと触れた。

「もう、いいんだ。――赦すよ」

 青年の目から緩やかに光が消える。
 男が観念したように天を仰ぐ。
 瓦礫の撤去作業をしていた住人や、探索部隊が彼に視線を注いでいる。
 彼が魂を見送る時、天上からの光が差すのだ――教団の人間たちはまことしやかに言う。
 けれど、神田はそんな光を見た覚えがない。
 教団の人間が尊ぶこの瞬間が、神田は嫌いだ。
 彼が、押し付けられた役割を全うしようとする瞬間が。
 彼に役割を押し付けて甘えている者たちも好きではないが、その甘えを助長するのは間違いなく、彼の甘さで。

「ちっ」

 青年の瞼を閉じてその手を師である男に引き渡してから、彼は輪を離れた。
 神田のところまでやってきて悪戯に笑った顔には、人間味が欠けている。

「なに変な顔してんの、ユウ」
「……こっちの台詞だ」

 大義のために犠牲にされるものなんて、少ない方がいいに決まっている。
 平穏な毎日。
 死の危険のない毎日。
 武器を持たない毎日。
 好きな仕事をして、好きなスポーツをして、好きな靴を履ける。
 ひとつ所に、家族と同じ屋根の下で暮らせる。
 エクソシストが犠牲にするものは、そういうものの筈だ。

「ははっ、鏡見てから言えよ」

 言葉選びでは、こいつにはとても敵わない。
 神田は結局、舌打ちをもうひとつ零した。

「行くぞ」
「はいはい」









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