燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









聖女はかく語りき「甘い甘い砂糖菓子になる」










 アレンは大通りに面したホテルの入口で首を捻った。

「(あれ? 兄さんがいない)」

 兄弟子との待ち合わせは、この場所で合っているはずだ。
 ティムキャンピーもアレンの頭の上でくるりと一周し、体を傾けた。
 首を傾げているつもりなのだろう。
 待ち合わせ時間に待ち合わせ相手が来ていない。
 いつもなら自分が道を間違えたと思うところだが、今日のアレンは集合場所に正しく到着した自信があった。
 なにせ昼過ぎに師匠と兄弟子と共にチェックインしたばかりのホテルである。
 共に、というのは些か語弊があって。

「おい、あとは任せた。オレは馴染みの店に行ってくる」
「は? どの店っ……待って、どの店ですか、師匠!?」

 宿帳に記名するため万年筆を持った兄弟子はカウンターから離れる訳にも行かず、首だけで振り返る。
 追いかける彼の声にひらひらと手を振って応えただけで、クロスは歩き去ってしまった。
 三人分の荷物を持たされたアレンと、ペンを握り折りそうな兄弟子を残して。
 クロスの背を目で追っていたアレンだったが、すぐに視線を外した。
 なんだかんだ、兄さんが一緒なら特に問題はないだろうという確信がある。
 それよりも、今夜泊まるそのホテルの内装があまりに豪華で目を奪われた。
 シャンデリアも、待合のテーブルや、ソファも。
 テーブルクロスや、その上に置かれた花瓶も。
 一つ一つの価値はアレンにはよく分からないけれど、それでもピカピカに磨かれていることはよく分かる。
 エントランスの隣はガラス張りのサンルームになっていて、明日は此処で評判の朝食を食べられるという。
 荷物を部屋に収めてから、アレンと兄弟子は実施中だったアフタヌーンティーの様子を覗き見た。
 配られていた料理の、なんと美味しそうなことか!
 ほかほかのスコーンをいくらでも食べていいらしい。
 明日の朝食も同様で、サンドウィッチも、オムレツも、フルブレックファストも、何でも頼み放題なのだと。

「そんなに豪華な朝ごはんを、僕なんかが食べていいんですか!?」
「もちろんでございますとも。お客様の為にご用意しております。明日の朝、またお会いしましょう」

 二人を案内したホテルスタッフがにこやかに説明するものだから、アレンは既に明日の朝が楽しみでならない。

「僕、今夜は早く寝ますっ!」

 宣言すると、兄弟子はくすりと笑った。

「別に早く寝たからって、早く明日になるわけじゃないよ」
「あ、そっか」

 それはそうだ、恥ずかしい。
 でも思わずそう言ってしまうくらい、気分がいいのだ。
 兄弟子も改めて朝食の案内をするポスターに目を遣った。

「でも確かに、夢みたいなメニューだよなぁ。流石高級ホテルなだけある」
「兄さん、それなんですけど、僕心配で……」

 兄弟子の団服の袖を引くと、彼はアレンが小声で話したいのを察して、少し身を屈めてくれた。

「師匠って借金まみれなのに、こんな高そうなところに泊まっちゃって大丈夫なんですか?」

 声を潜めて訊ねると、彼は気まずそうな曖昧な笑顔でアレンから目を逸らした。
 不穏だ。
 思わず青ざめるアレンに、彼は慌てて手を振る。

「いや、違う違う、大丈夫。大丈夫にするよ、何とかなる」
「大丈夫に『する』って、兄さんが何とかするんじゃないですか!」
「別に師匠だって無策なわけじゃない……だろうけど万一があっても困るからな」

 だから、俺がちょっと金を稼いでくるから、お前は今日のところは観光でもしてきな。
 兄弟子の財布からポケットマネーで小遣いを渡され、そうしてアレンは街に放り出されたのだ。
 ホテルに辿り着かなければ明日の朝食にはありつけないのだから、アレンは死ぬ気で集合場所を目指した。
 ――そして、今に至る。
 ティムキャンピーが頭の上にちょこんと乗り、羽を休めた。
 これは大人しく待つことを推奨されているに違いない。
 途中の屋台で買ったドーナツを頬張りながら、少し待つとしよう。

「(でも、兄さんが待ち合わせに遅れたことって無いよね)」

 もし、賭場でガラの悪い大人に絡まれていたらどうしよう。
 イカサマ無しでゲームに勝ちまくるあの光景は、イカサマ師やオーナーからすればだいぶ癇に障る筈だ。

「(どうしよう、探しに行った方がいいかな?)」

 けれどアレンが加勢したところで状況が好転するとは考えにくい。
 なにせアレンは腕っぷしも、対アクマ武器の扱いも、身のこなしさえも兄弟子に敵わないのだ。
 自分なんかが行っても足手まといかもしれない。
 どうしようかなぁ。
 ドーナツを噛み締めながら唸っていたところ、通りの向こうから「気配」がした。
 顔を上げる。

「アレン!」

 沈みかけた夕日を背にして、兄弟子が大股で歩いてくる。
 彼の姿を目にしたらほっとして肩の力が抜け、ドーナツの袋を落としそうになった。
 兄弟子が見事な反射神経でひょいと手を伸ばし、アレンの手ごとドーナツの袋を掴む。

「っと、危ない」
「す、すみません」
「それはこっちのセリフだよ。ついでに師匠を探してたんだ、明日まで戻らないってさ。待たせて悪かったな」
「いえ、僕もさっき来たところですから」
「ははっ、そんな言い回しどこで覚えたんだ」

 ティムもお待たせ、と兄弟子はアレンの頭とティムキャンピーをそれぞれ撫でた。

「珍しいな、自力で待ち合わせ場所に来られたなんて。あんまり遠くには行かなかったのか?」

 退屈させちゃったかな?
 兄弟子が優しく問いかけるので、アレンはぶんぶんと首を振った。

「博物館に行ったり、公園を散歩したり、ちゃんと観光しました」
「博物館って、あのでっかい所?」
「はいっ!」
「へぇ、いいな! 俺もまだ行ったことないんだよ」
「最初は入るつもりは無かったんですけど、なんと入場無料だったんです――」

 何の気なしに建物の前まで行ってみたら、博物館は入場無料だったので、つい入ってしまったのだ。
 館内には至る所に募金箱があり、素通りするのも気が咎めていちいちコインを入れてしまった。
 そうして石碑や石像などを眺めてしばらく見回っていたけれど、アレンは奥には行かず引き返した。
 近場のパブで買い込んだパイやフィッシュアンドチップスを外のベンチで食べたあと、気の向くまま近くの公園を散歩した。
 そして地図を睨んで人に尋ねてようやくホテルに戻ったのだ。

「そういうわけで、楽しい午後でした。あの、でも、お金、おやつ食べるのに使っちゃって」
「そのために渡したんだから、いいんだよ」

 アレンの話をじっくり聞いてくれた兄弟子は、ふと首を傾げた。

「けど、勿体ない。あの博物館は一日じゃ回りきれないって有名なとこだろ? もっと奥まで見ればよかったのに」
「それは、だって……僕なんかが見るのは、分不相応っていうか」

 気が引けたのだ。
 書いてある説明も難しくて、人名なのか地名なのかさえ分からない言葉もあった。
 地名が分かったとしてもそれが世界のどこにある場所なのかも知らない。
 書いてある時代も年代も、古すぎていつの事だかも分からない。
 そんな自分が「貴重だと評価されている物」を見るのは、なんだか憚られた。

「価値だって、よく分からなかったので」

 兄弟子はふぅん、と呟いてから、アレンの腕を引いた。

「まあいいや、夕飯食べに行こう。一応聞くけど、そのドーナツは夕飯じゃなくておやつだよな」
「はい、そうです」
「よし。じゃあそれで今日は早く寝て、明日は朝ごはんを食べたら博物館に行こうぜ」
「えっ、でも」
「入場は無料なんだろ?」

 悪戯ににこっと笑う、その表情に見惚れた。

「なんだか高そうなホテルも、評判の豪華な朝ごはんも、貴重な展示物を見るのも、資格なんて要らないんだよ」

 アレンの真っ赤な左手を、彼の優しい右手が握る。

「明日はお前が、今日見たところを案内してくれ。それで二人で『すごいなー、でっかいなー』って言おうぜ」
「そ、……そんな感想でいいんですか」
「いいんだよ。それで、師匠に凄いものを見ましたよ、って自慢しよう」

 穏やかに引き寄せられたアレンの頭に、彼の手が乗る。

「だから、アレン。お前は、俺の大事な弟のこと、『なんか』なんて言うなよ」

 多分無意識にやっているのだろうけれど、兄弟子は、アレンの頭を撫でるのが好きだ。
 兄弟子と出会ってすぐの頃、アレンはこれも自分には相応しくないと思っていたのに、今では慣れてしまった。

「(どんどん贅沢になってく)」

 そう思わないでもない。
 とはいえ、大切にされることが嬉しくないわけでは無かったので。

「……明日、楽しみです」

 にんまりと持ち上がる唇と頬を隠し切ることはできなかった。









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