燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
14th.Anniversary「精一杯の負け惜しみ」
「お兄ちゃん」
結局は、その言葉がきっかけだったのだろう。
リナリー・リーに出会って初対面で大泣きしてからというもの、は軽やかに笑うようになった。
クロスに心配をかけまいと意気込む顔ではなく、些細なことで、穏やかに。
まるで、あの村にいた頃のような優しい笑顔で。
一概に良かったとは言えない、家族に対してもどこか一線を引いたところのあった子供だ。
けれど、恐らく本人にとって最も馴染み深く自信のある「自分」の姿ではあるだろう。
クロスはふう、と溜息ついでに煙を吐き出した。
「なに? 師匠」
深皿のポトフを夢中で食べていたが、顔を上げてきょとんと瞬きをする。
「なんでもねぇよ。さっさと食え」
軽く手を振れば、弟子はまた器に向き合い、大口で玉ねぎを頬張った。
近頃どうも食事の量が増えたように思う。
教団生活に慣れてきたからか。
小柄な弟子であっても、それなりに成長期だからか。
若き料理長ジェリーのつくる食事が非常に美味なのも理由の一つで間違いはない。
「……んぐ?」
頬と顎をもっぐもっぐと元気に動かしながら、がふと食堂の入口の方へ首を巡らせた。
もう、フードがあろうがなかろうが、彼は空気の全てを察知してしまう。
それに過度な負担を感じなくなったのも、成長の証のようにも思えた。
が見遣った方向をクロスも見る。
なんと、リナリーに腕を引かれたコムイが食堂に来ていた。
驚いた。
「……こりゃ明日は雪かもな」
「いま、八月だけどね。おーい、リナリー!」
が手を振る。
顔を上げた少女は、頬を緩ませて小さく手を振り返した。
カウンターで受付をしていたジェリーに注文を済ませ、兄の腕を引っ張りながら此方にやってくる。
彼女がまっすぐ目指したのはの隣だ。
コムイはテーブルの前で手を離され「兄さんはそっちね」と指示されていた。
しょんぼり項垂れたコムイが、リナリーの真向かい、クロスの隣に座った。
「どうしたの、こんな時間に」
今日のクロスとはしっかりと二度寝をしてから朝食を摂りにきた。
時間的には昼に近い十一時。
規則正しい生活のリナリーにとっては朝食には遅く、昼食には少し早い。
「あのね、ジェリーが、兄さんがもう四日もまともにご飯を食べてないって言うの。ね、兄さん」
「深い事情があるんだよぅ、リナリー……大目に見て欲しいなぁ。一応栄養ドリンクは飲んでたし」
「だーめ! ちゃんと食べなきゃ頭も働かないでしょ? ジェリーも婦長も、心配してたよ」
「よくコムイを連れ出せたね。兄貴が『サボるなー!』って言わなかったの?」
「うん。むしろ部屋から引っ張り出す時、リーバーさんが手伝ってくれたよ」
リナリーがの袖を引き、彼の耳元に顔を寄せた。
「あのね、お兄ちゃん。リーバーさんって、ちょっと優しいね」
声を顰めているつもりなのだろうが、囁き声というものは余計に際立って聞こえるものだ。
極端に表情が乏しかった少女も、近頃随分と見違えた。
にもすっかり懐き、コムイに甘えるのと同じくらい屈託なく甘えている。
最近は二人で様々な班の活動場所に出向き、団員たちと仲良くなったらしい。
あれほど怖がっていた科学班の研究室にさえ、今や毎日出入りしている。
大したものだ。
クロスはにんまりと笑う唇を、ワイングラスに隠した。
がにっこり笑う。
「そうだねぇ。リナリー、あのトランポリン作ってくれたのは、兄貴なんだよ」
「えっ、そうだったの?」
リナリーの戦闘訓練のためにトランポリンを作る、その発案者はだった。
資材を探し回っていたところ、科学班のリーバーに見つかり、彼が製作を請け負ってくれたのだという。
その話は、クロスも以前から聞いていた。
弟子はあれ以来、大きな尊敬の目でリーバーの背中を追いかけている。
リナリーはこの話が初耳だったそうで、大きな目を真ん丸にした。
「知らなかった……」
「別にわざわざ言うようなことじゃないから、って兄貴は言ってたけど。言っちゃった」
てへっ、と舌を出したを見て、コムイが吹き出した。
子供たちがコムイに顔を向ける。
濃い隈の刻まれた目元を柔らかに微笑ませ、若い室長は肩を竦めた。
「ごめんごめん。がポロッと秘密を漏らしちゃったことは、リーバーくんには内緒にしといてあげよう」
「えへへ、ありがと」
「だからボクのことも『兄貴』って呼んでくれていいんだよ」
「それなら別に言ってもいいよ。兄貴、こんなことじゃ怒んないし」
「ちぇー、ボクにはちょっと冷たいんだからァ」
最近馴染みとなったやり取りを笑顔で躱すに、コムイは立ち上がりながら笑って返した。
カウンターのジェリーに呼ばれ、右に左に揺れながら歩いていく。
そんなコムイの背を、リナリーがハラハラと緊張した面持ちで見守っている。
が背中を優しく叩いて促すと、少女は決然と立ち上がって兄を追いかけた。
「兄さん待って、私が持つから!」
「リーバーのことは『兄貴』でいいのか?」
輪切りにされた大きな人参にガブリと噛み付いたに問い掛ければ、彼は小首を傾げた後、こくりと頷いた。
――リーバーさん、かっこいいんだよ!
晩酌の間、絶え間なくリーバーのことを話していた夜は、記憶に新しい。
気さくで親切な態度も、頼り甲斐のある笑顔も、複数の学問に精通する優秀な頭脳も、クロスやコムイほどではないがすらりとした背丈も。
にとっては、憧れる要素ばかりなのだろう。
思えば、過去ではなく現在を生きる人間に興味を示すのも、久し振りに見る姿だ。
「(マザーにも、バーバにもこういう顔を見せてやりてぇな)」
まだ、少年が弟子にもなりきれていない時分に顔を出したきりだ。
いずれまた連れて行って引き合わせてやるような機会があるといいのだが。
「しっかし、コムイもいい加減しつこいだろ。呼び方くらい妥協してやりゃあいいじゃねぇか」
ナッツを摘みながらそう言えば、は人参の残りをしっかりと噛み締め、飲み込んだ。
フォークを握ったまま頬杖をついて、横目でじっとカウンターの方を見つめる。
それから、弟子は蕩けるような甘い眼差しでうっそりと微笑んだ。
「やだ」
視線を深皿に戻して姿勢を正したは、小さく肩を竦めてスープを掬う。
「……うらましくなるから」
弟子が目を逸らした先を見遣る。
猫背で困ったように頭を掻く兄と、彼からトレイを奪おうとする妹。
仲睦まじく言葉を交わして、楽しそうに笑っている。
コムイ・リーがその手で、その能力で、力尽くで取り戻した兄妹の日常を。
「ま、お前に『お兄さん』と呼ばれるのはオレだけで十分だな」
「は? 師匠はおじさんでしょ」
「どっからどう見てもお兄さんだろうが」
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