燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
11th.Anniversary「神様の鼓動」
未来編(ver.1)
カイル・カッシュの朝は、なかなかに忙しい。
ぎこちなく身支度を整えたら、まずは師匠の寝起きする医務室へ朝の挨拶に向かう。
師匠と一緒に食堂に向かう日もあれば、病室の前で師匠の師匠に捕まえられて二人で朝食を摂る日もある。
クロス・マリアンは見た目がとにかく厳つい。
けれどカイルの師から生活習慣を注意されているところを頻繁に目にするので、恐怖心はあまりない。
食堂に集う人々がざわめくのが、少し申し訳ないかなと思うくらいで。
今日の朝のカイルは、師匠の部屋に入ることが許可された。
気に入りの大きな枕の上で少し顔を動かした師匠の顔色はあまり良くなかったけれど、いつも通りの優しい微笑みに迎えられたのだ。
「あの、おはようございます、師匠」
「おはよう」
柔らかな表情に朗らかな声で、カイルに応えた・は、ふう、と一息ついて首を傾げた。
脇に立つドクターが、笑いを堪えるように顔を背ける。
「カイル、鏡見てきたか?」
「えっ? うん、顔洗ったときに見ました」
本当かよ、とが苦笑した。
「もう一回、顔洗っておいで。ほっぺたに涎ついてるから」
「うそっ!?」
さっきは無かったのに! 洗ったのに!
慌てて近場の洗面所に駆け込み鏡を見ると、確かに頬に白い痕が残っている。
恥ずかしくて熱くなった頬をごしごしと擦り、医務室に駆け戻る。
扉の外で婦長が待っていた。
「婦長、あの、その、オレ、ほっぺ……」
「大丈夫よ、もう取れてるわ」
微笑ましいとでも言いたげな顔でそう言われるとますます気恥ずかしくてカイルは思わず俯いた。
ぽんぽん、と肩を叩かれて上目遣いに見上げる。
婦長は小さなメモをカイルに差し出した。
「さ、朝ごはん持っていらっしゃい。師匠の分はこれを、料理長に渡してちょうだいね」
カイルは深呼吸をする。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
三回唱えて慎重に紙を受け取ると、婦長は頼んだわよ、と微笑んだ。
「婦長、クロス元帥は?」
「たしか、明け方にお部屋に戻っていったわね。まだ寝てるんじゃないかしら」
「ふうん……分かった、ありがと! いってきます!」
そうして食堂に駆け込んだカイルは、食堂のカウンターで厨房に声を掛けた。
「ジェリーさーん!」
なんだかんだとやっているうちに、朝食というにも昼食というにも半端な時間になってしまった。
いつも注文口で待機してくれている料理長は、カイルの声に振り向いて「あらんっ」と顔を綻ばせる。
「カイルちゃん、遅かったじゃなーい! おっはよ。今日はどうするの?」
「おはよ。あの、えっと、今日は向こうに持ってく。これ、婦長から」
「りょーうかいっ! は……なるほど、林檎でいいのかしらね。カイルちゃんはどうする?」
尋ねられて、カイルはメニューを眺めた。
まだ文字がきちんと読めるわけではない。
けれど食堂のメニュー表は覚えたので、セットの注文くらいなら一人で出来る。
まず目が行ったのは、プレートに細いソーセージの乗っているAセットだ。
食堂に入った瞬間にカイルの鼻に届いた香りがまさにそれだった。
だからか、なんとなくソーセージの口になってしまっている。
しかし。
カイルはふるる、と首を振る。
今朝の師匠は、多分「カイルと一緒に食事をする」という気力だけで朝食をオーダーしているのだ。
その隣で彼が苦手とする肉を口にしようとは流石に思わない。
「んぅ……」
視線を彷徨わせると、無難なオムレツのセットが目に入った。
オムレツ、揚げたポテト、サラダ、パン。
この組み合わせならいいだろう。
「えーっと……じゃあ、Cセットで」
「ふんふん、オッケー! 少し待ってちょうだいねー」
セットの注文だから、準備はすぐに済むはずだ。
カイルは少し振り返って食堂の中を眺めた。
時間帯のせいか、人はまばらだ。
それにしても、今日は白服が少ない。
探索部隊の姿がないのだ。
この建物で白服といえば普通真っ先に探索部隊が頭に浮かぶし、黒服といえばカイル達エクソシストが浮かぶだろう。
けれどカイルにとって白服は医務室のドクターの方が馴染み深い。
此処に来るまであまり見たことのなかった清潔な純白は、師匠の周りにいつも存在している。
「(クロス元帥、明け方までいたんだなぁ……)」
昨日の夕方、稽古をつけてくれていたクロスのゴーレムが鳴った。
通信元は医務室。
至急の呼び出しだ。
カイルの日常にはさして珍しいことでもない。
ちょうど切り上げて風呂に向かおうとしていた頃合いだったこともあり、クロスはそのまま病室へ行った。
それからカイルはミランダと一緒に過ごしていたのだが、クロスはずっとの傍にいたのだろう。
彼が引き上げたのが明け方というならば、カイルの師匠の体調が落ち着いたのも明け方だったのだ。
「(林檎……師匠、八切れも食べられるのかな)」
林檎は絶対に無駄にしない人だから、食べ切れなければカイルにお裾分けされる筈だ。
新鮮な果物なんてここに来るまでは口にしたことも無かったから、食べられるのは純粋に嬉しい。
けれど、カイルは食べられなくてもいいから、できれば師匠に食べてもらいたいと思う。
多分、林檎もその方が本望だろうし。
「カイルちゃーん、おまったせー!」
はっとしてカウンターを振り返ると、鼻に熱い湯気が当たった。
「ぅえっ!?」
鼻先にあった温もりをまじまじと見つめる。
Aセットのソーセージだ。
フォークごと「はい」と渡されたそれを、思わず受け取った。
何も考えずに受け取ってしまってから、慌てて意識を研ぎ澄ませる。
大丈夫大丈夫、大丈夫。
「えっ、これ、何で?」
「毎日頑張ってるから、ごほーびよん。此処で食べてっちゃいなさい」
あ、ありがと……ともごもご言ってから、改めて肩を竦め、言い直した。
「ありがと、ジェリーさん」
頬張ったソーセージはあまりに熱くて、落ち着きなくはふはふと口を動かす。
熱い食べ物、噛んだそばからじゅわっと染み出る肉汁は、最近知った幸せの一つだった。
トレーは、カイルが持ちやすいように底が深くて持ちやすいものが用意されている。
目下の目標は、底が浅いトレーに食事を載せて医務室まで中身を零さずに運ぶことだが、先は長い。
半月前には、角から突如現れたコムリンなるロボットに驚いてトレーごと中身を燃やしてしまった。
「あの日は、師匠が司令室に乗り込んでったんだよなー」
あの日のは、生き生きとした笑顔で室長を逆さ吊りにしていた。
師匠もあんな悪ガキみたいな表情をすることがあるのだとカイルはそちらに驚いたものだ。
「コムリンが来るときは、モーターの音がする……あと、影……注意注意……」
師匠の教えをぶつぶつ繰り返して慎重に歩を進めると、カイルは目的地の異変に気付いた。
医務室の前に白服がいる。
「(何で?)」
明け方までクロスがいたのなら、あの部屋は今、室長とクロス一門しか受け入れていないはず。
アレンが白いのは髪の話で、服ではない。
そしてあれは、医療班の白服ではない。
探索部隊の白服だ。
カイルは慎重な早足で部屋に近付く。
辿り着く前に、四人の白服がぞろぞろと部屋から出ていった。
カイルに気付く様子もない。
「師匠?」
開け放たれたままの扉に駆け込むと、カイルの師匠は分かっていたように此方を向いた。
「カイル、先に食べててもいいぞ」
そんなの絶対に嫌だ。
わざわざ此処までトレーを運んだのは、師匠と一緒に食べたいからだ。
カイルはぶんぶんと首を振ってトレーをテーブルに置いた。
「何があったんですか?」
が、目を伏せた。
穏やかな表情なのに、それを見上げたカイルの足首を、ひたり、と冷たい悲しみが握り締める。
「殉職者が出たんだ。……俺は、弔いに行ってくるから」
そう言って、カイルの師匠はすっと立ち上がった。
壁に掛けていた団服をひらりと羽織る。
久し振りに見た姿だ。
カイルの物とは異なる金の装飾が照明にきらめく。
「オレも、着いていきます!」
意気込んでそう言うと、は浅く息を吸って、それから頷いた。
ドクターはいつも通り「無理はしないように」とだけ言う。
きっとそれ以上は、師匠が言葉を受け入れてくれないのだろう。
カイルにはとっくに分かっている。
カイルの師匠は優しそうな穏やかそうな顔をして、あれでかなりの頑固者だ。
の、否、「教団の神様」の弔いに着いていくのはこれが初めてではない。
本当は、慣れるような頻度で有って欲しくはないのだけれど。
「様!」
「様!」
「元帥!」
啜り泣きが響いていた聖堂に黄金が踏み入れると、罅割れた悲鳴が彼方此方からあがった。
毎度のことだが、カイルはその声の波にいつも、ほんの少し怯んでしまう。
半歩前を行くは動じることもなく微笑みを浮かべたままゆっくりと歩を進めていった。
「お赦しください……! 私達は、私はっ……あああ、どうかお赦しくださいっ……!!」
「ああ」
縋りつき崩れ落ちる探索部隊員の手を取って、跪き、肩に手を置いて、そして「教団の神様」は微笑む。
「いいんだ。――赦すよ」
その言葉を向けられたのは一人きりの筈なのに、聖堂に集った誰もが救われたような顔をした。
或いは安堵の表情で。
或いは、責められなかったことに傷ついたような表情で。
「生きていてくれて、ありがとう」
けれど、そんな人の心も宥めて赦してしまう、そういう強制力を「教団の神様」は持っている。
立ち並ぶ生者にも、安置されている遺体のない死者にも、一人ひとりにも声を掛けて。
それから、立ち上がるのに僅かに苦労したのが判ったので、カイルは彼の手が無理なく届くところまで近寄った。
こんな場所まで難なく来られる状態ならば、最初から一緒に食堂へ行こうとしてくれただろうに。
がちらと此方を見て、苦笑いでカイルの肩に手を置く。
「ありがとな」
「(……無理しないで、師匠)」
カイルの肩を一瞬だけ経由して、真っ直ぐ立ち上がったは、祭壇の前に歩み出て再び膝をついた。
組んだ手を額に唇に当てるようにして、目を瞑り、項垂れる。
音もなく染み渡るような静かな表情なのに、その奥で祈りが燃え滾るのを感じる。
カイルはその傍らに立って、ただただ黄金色を見下ろしていた。
「(ドクターだって、言ってたじゃん)」
カイルは、自分の背中に向けられる期待の眼差しを、全て、無視する。
――はじめまして――
「教団の神様」が選びとった唯一の弟子に対する強い強い強い、期待を、願いを、全て無視する。
――君と家族になりたいって、俺が申し出たんだ――
カイルにとって大切なのは、世界で初めてカイルを受け入れてくれた人の言葉と願いだけだから。
「(……師匠、朝ごはん、食べようよ)」
カイル・カッシュは、・の弟子である。
――だから、いずれこの教団から「神様」の鼓動は絶えるだろう。
200808