燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
04.スプーンを片手に 【タイトル:Hiver様<その他>より 】
はパエリアの皿を抱え込み、サッとテーブルの下に潜り込んだ。
視界に映る壁へ、食べ物の入った皿がぶつかり、砕ける。
「貴様! どの面下げて此処に戻ってきた!」
語気も荒く捲し立てるのは、この町で最も裕福な家の主人だ。
どうやら、師匠は以前にもこの町を訪れたことがあるらしい。
そして話を聞く限り、この男性に借りた金を未だに返していないらしい。
「あーあーうるっせぇな、トンカチ落とすぞ」
「ふんっ! この私が、二度も同じ手を食うものか!」
「(……とんかち?)」
とんかちって、何だろう。
はスプーンを銜え、首を傾げた。
大工道具の一つではないかと思うのだが、どうやら別物のようだ。
だって、とんかちは釘を打つもので、決して何処かに落とすものではない。
「(僕の知らないとんかちなんだ、きっと)」
どんな形か、後で師匠に聞いてみよう。
パエリアを掬って口に入れながら、は密かに心に留め置いた。
ガシャンッ
ひっ、と銀色を握り締める。
またも皿の割れる音。
師の呆れたような声が降ってくる。
「勿体ねぇなオイ」
狭い視界で、クロスの手が椅子に置かれた帽子を取り上げた。
旅立ちの合図。
ランチなんか、している場合ではない。
「話を聞け! いや、聞かなくていいから金を返せ!」
「聞かなくていいなら返さなくても構わねぇよな」
「マリアンッ!」
激昂が、空気を貫く。
はこっそりテーブルの下から這い出した。
クロスに手が届く位置で、そっと立ち上がる。
「ったく、ケチケチすんなよ。金なら腐るほど持ってるくせに」
「それとこれとは話が別だ!」
男性が、がたった今這い出したテーブルをバンと叩いた。
思わず肩が跳ね上がり、それに伴ってフードが外れた。
「っ!」
全身に、五月蝿いくらいの空気が纏わりつく。
悪寒が恐怖を連れて、背中を駆け上がった。
怖くて、苦しくて、動くことも、息も出来ず、ただ立ち尽くす。
ふわり、
そんな体に、唐突に触れた腕。
腹の辺りを軽々と抱えられる。
頬を撫でたのは、赤い髪。
鳥肌が、すっと治まった。
「マスター、勘定と修理代はアイツの付けで」
人が悪い笑みを浮かべ、クロスが言い放つ。
しかしいつの間にか、店は静まり返っていた。
客もマスターも、興奮していた筈の男性でさえ。
を見つめたまま、凍りついたように動きを止めている。
「(な、に……?)」
何か、しただろうか。
自分を小脇に抱えるクロスへ、はおずおずと視線を向ける。
彼はそれに応える事なく、堂々と、しかし足早に店を出た。
振動で、フードが再び頭に被さる。
世界からの隔絶。
とうに閉まった扉の向こうから、何やら怒号が聞こえた。
「お前なぁ……」
対して、頭上から降ってきたのは軽い笑い声。
とん、と地に下ろされる。
「スプーン、銜えたまま来たのかよ」
指摘され、優しく引き抜かれて初めて、その銀の存在を思い出した。
彼が照れたように、ほんの少し微笑んだ事は、クロス以外、誰も知らない。
(主人公9歳)
110304