燔祭の羊
<ハンサイノヒツジ>
01.楽園を貶す言葉 【タイトル:Hiver様<言葉>より 】
宿の階段で、団服からふ、と離れた手。
「(またか)」
クロスは振り返り、片膝を着いてフードを覗き込む。
黄金の下で、漆黒が当てもなく彷徨っていた。
「」
本人は、こちらを心配させまいと気を張っているのだろう。
ようやく見せるようになった笑顔が、とても歪なものと知ったのは、つい先日。
こうして度々、あの村から連れ出した時と全く同じ表情を見せる。
瞬きすらしない、光を失った瞳。
「聞こえるか、」
特定のきっかけがある訳でもなく、唐突に仮面をなげうって、無防備な内面を曝してしまう。
今のが作り上げた仮面は、「クロスが望む」彼の姿だ。
しかし、言葉にして伝えた事が無いせいか、それはひどく不安定な物で。
それでも、短い生の大半を仮面と共に過ごした彼には、どうしても必要な物だった。
「……め、……さ……」
「」
強く名前を呼び、手を握る。
小さく息を飲んだ少年は、徐に目を上げた。
クロスの顔に焦点を結んで、当惑の表情を浮かべる。
彼の記憶の中では、クロスはつい先程まで立って背を向けていた筈なのだ。
「し、しょう?」
立ち上がったクロスを追って見上げる漆黒へ微笑を向け、軽く頭を撫でる。
「行くぞ」
再び、彼の手がクロスの団服を掴もうとして、不意にその動きを止めた。
「どうした?」
ぱさりと音を立ててフードが落ちるのも構わず、が壁を見上げている。
ひどく頼りない、クロスをも不安にさせる空気が、階段を包んだ。
しかし、纏う空気に反して揺るがない視線の先には、美しい碧色の油絵。
「これ……」
小さな手が団服を掴む。
「……何?」
「海、だな」
「……海……」
「ああ。海の絵だ」
漆黒を縁取る黄金を小刻みに瞬かせ、はクロスを見上げた。
「海って……青いんじゃないの?」
クロスは一瞬、答えを躊躇った。
数多の言語の知識はあれど、彼は未だ、書物の中でしか海を知らない。
「いつも青いわけじゃない。場所と時間と、天気によって、色が変わる」
何処だかは知らねぇが、これは相当綺麗な所だな。
そう付け加えると、は再び絵画に視線を戻した。
「色……」
団服を掴む手が、僅かに緩む。
けれどそれは一瞬のことで、上階から女将が下りてくると同時に、彼は団服を握り締めた。
女将は会釈をしただけだ。
それなのに、凍えそうなほど張り詰めた空気が、その場を支配した。
怯えて色を失った唇を見遣る。
黄金を隠すように、フードを被せた。
「海、行くか」
団服を握る手に、自分の手を重ねて解かせる。
そのまま、彼の手を優しく握った。
潤んだ漆黒が、クロスを見上げた。
「船にも乗ろう、」
それには、生まれ育ったこの国から離れなければならないのだけれど。
言葉にはしなかったその事実にも、少年は気付いていただろう。
窺うようにクロスの目を見つめる。
やがて微かに、手を握り返した。
(主人公9歳)
110204