燔祭の羊  
   <ハンサイノヒツジ>  









10th. & 90,000hit Anniversary「せめて、墓標だけでも」









がクロスに連れられてスイスのその町に辿り着いたのは七日前だった。
何軒ものバーやパブを渡り歩いていると、ある話を耳にした。
曰く「この町には病院がない」とのこと。

「そりゃあ色々と不便だろう。病院は近くにあるに越したことはねェからな」

クロスがワインを傾けながら言う。
ソファの隅で本を読んでいたも、少しだけ顔を上げ、実感を込めて頷いた。
師に両側からしなだれ掛かる女性達が、そうなんですぅと高い声で言う。

「具合悪い時に隣町なんてとても行けないわ」
「下の階に住んでるおじいちゃん、間に合わなくて亡くなったのよ」
「誰か新しい病院建てるヤツはいねぇのか?」
「いないんですぅ。でも、建ててもお医者様がいないかも」
「……なんで病院なくなっちゃったの……?」

はそもそもの疑問を口にした。
隣で氷を割っていたこの店のママがに顔を寄せる。

「こわぁい事件があったのよ」
「そうなの! こわぁぁい事件がね!」

きゃーと歓声を上げてクロスにしがみつく女性達は、あまり怖そうではない。
けれど話を聞いて、は鳥肌の立つ腕をぎゅっと握りしめたのだった。









その医師は、とにかく目立つ存在だったという。
長く滑らかな銀髪、瞳は宝石にも似た紫色。
愛想はあまり無く、ぶっきらぼうな物言いをするが、気休めや適当なことは言わない。
そんな優秀な若手の医者が、事件の犯人だった。
一夜にして、彼は病院中のスタッフと患者を皆殺しにしたのだ。
死因は全員、失血死。
凶器は等しく、手術刀。
切り刻まれた犠牲者の中にその目立つ容姿が無かったので、彼が殺人鬼だとすぐに判明した。
姿を消したその医者が、何処へ逃げ遂せて現在何をしているかは、誰も知らない。
何が理由でこのような凶行に走ったかも分からないままだ。
人を狂わせるような何かがあったのだろうか。
警察の捜査は行き詰まり、病院幹部が人身売買に加担していたという事実だけを明らかにした。
病院はそれ以降封鎖されたそうで、当時の状況そのままに現在は廃墟と化している。

「此処がその病院か」

門の南京錠を断罪者であっさり破壊し、クロスが先に立って敷地に侵入した。
後をついて門をくぐったは、ずんと聳える病院を見上げる。
建物自体にそこまでの年季は入っていない。
けれど、その廃れた気配は一瞬に感じ取れた。
お化けが出そう、呪われそう、そんな言葉では収まらない。
内臓を揺さぶられる気持ち悪さは、そう、きっとこの建物に纏わりついた臭いのせいだ。

「(血のにおいが、する)」

黄昏を喚ぶ臭いには眉を顰めてクロスの服をきゅ、と掴み、顔に近付けた。
おじさんの煙草の香りなら、全部全部洗い流してくれる。

「(……そんなこと考える僕は、悪い子だ)」

逃げ出そうとするは、罪深い子だ。
本当は全て受け止めて、全て全て、どんな悲しみも苦しみも全てを感じ取らなければいけないのに。
否、本当は、それを悲しんだり苦しんだりすること自体が悪いことなのだ。
全部全部、が悪かったのだから――

「――

その声にハッとして、俯けていた顔を上げる。
フードを背中に落とすことも怖くて出来なくて、窺うようにクロスを見た。

「お前、外で待ってろ」

遠くに行くんじゃねェぞ、とまで言うので、は堪らずクロスのコートを握り締めて首を振る。
置いていかれるくらいだったら、着いていくし、着いていける。
そう言いたいけれど、言葉は喉で蟠って表には出てこなかった。

「そんな顔で来られても足手まといだ。外で待ってろ、すぐ戻る」

躊躇するを置き去りにしてクロスは建物の中へ入ってしまう。
は後を追おうとしたけれど、どうしても入口で足踏みをしてしまった。
建物に近付けば近付く程、内部の空気を吸う毎に血の臭いが濃くなっていく。
中の空気なんかとうに全て入れ替わっているだろうに。
結局は、建物の壁に沿って歩いてみることにした。

「医者を心変わりさせるような『何か』があったのかもしれない」

というのがクロスの考えだ。
或いはそんな惨劇を引き起こすような能力を持つイノセンスがあるのかもしれない。
はてくてくと小さな歩幅で歩きながら、一人考えを巡らせる。

「(イノセンス、お医者さんに持ってかれちゃったんじゃないかな)」

でなければ、適合者であるその医師もイノセンスに殺されてしまったのかも。
何せ行方が分からないというのだから、そういう可能性も考えた方がいい筈だ。
悲しいことだけれど、イノセンスが適合者を殺してしまった事例をこの旅の中では目にしている。
病院の裏手まで回って、ふと気になったことがあった。

「……だれが、見送ってくれたのかな」

この建物いっぱいの死者を、一体誰が弔ってくれたのだろう。
バーの女性達は、ママも含めて誰もそんな話をしていなかった。
医者と患者と、警察と新聞記者の話くらいだ。
教会とか、神父や牧師の話など、誰も口にしなかった。
は病院を見上げ、膝をつく。
空気に染み込むほどの血の臭い、それと同じだけ痛みと苦しみと悲しみがあっただろうに。
もしも顧みられなかった人がいるとするならば。

「(それは、……かわいそうだ)」









無造作にフードを取られて、それなのに自分の上には影が差していて。
は驚いて顔を上げた。

「何してんだ、こんなとこで」
「え、待ってた……」

待ってろって、言われたから。
の後ろでこちらを覗き込み仁王立ちをしていたクロスが、軽く溜息をついた。
襟首を摘まれて、ひょいと立ち上がらされる。

「イノセンス、あった?」
「いや、空振りだったな。結局真相は闇の中、ってわけだ。お前は何か見つけたか?」

地面に下ろされて、ふるると首を振る。

「なんにも。……だから、見送ってあげなきゃと、思って」

だから、蹲って祈っていたのだ。
神様、この人達は何も悪くなかったのです、と。
勘違いしないで。
勝手に裁かないで。
優しくその懐に受け入れてあげて。
爪先を見つめて呟くように答えたは、知っているのだ。
クロスがの弔いを尊重してくれることを。
ぽすっと頭に手が乗せられる。
反対側の手が、風に煽られた帽子のつばを抑えた。

「気が済んだなら、行くぞ」

は彼の黒い団服を握る。

「うん」

足元に集めた小石を蹴飛ばさぬように、は師に従って病院を後にする。
門を出るときに、一度だけ振り返った。

「(神様、どうか)」

こんな悲しい終わり方が相応しい者は、世界にたった一人しかいないのだから。









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